私の造形

さて、いま頭の中を占めているのは、韓国文学(李清俊「あなたたちの天国」)の翻訳の仕事のこと、これからの小さな旅おおきな旅のこと、読むべき本読みたい本のあまりの多さのこと、二次元の言葉と三次元の言葉の葛藤のこと。

「本は読めないものだから心配するな」(管啓次郎 左右社)を読む。
実に当たり前のことだけど、書評は批評なのだということを再認識させてくれる本、そして、本を読むということ自体がそもそも批評する精神の営みなのだということを思い出させてくれる本、批評する精神を安らかに眠らせたり麻痺させたりする本に手を出している場合ではなかろう、きちんと生きようとするならば、と自覚させてくれる本、生きるということは、少なくとも私にとっては、批評する精神(偏屈な心ともいう)の日々の営みなのだということを思いださせてくれる本。

「われわれの仕事は、何を読むかではなく、むしろ何を読まないかにかかっている」という文芸批評の理論家ノースロップ・フライの言葉を引いて、管さんが言うことには、「読むべき本は無限にあり、時間や力はあまりにも限られているのだから、何かの主題に専心していれば、他の分野の本を読む余裕などないのが当たり前だろう」「わずかにでも専門家であることには、そのための相応のアスケーシス(禁欲=苦行)がどうしても必要だ」。
うん、確かにそうだと読みつつうなずく。さらにこんな問いも。

読書はもっぱらチャンス・ミーティング(偶然の出会い)であって、そこに発見のよろこびも、衝撃も、おびえも、感動も、あった。読書の幼年時代、誰もがそんな偶然によって、心という反応の回路を作り上げてきたことは、まちがいない。読書によって自分の心が大きく左右されてきたことを認める人間であれば、いったい何冊くらいの本が、その造形に関わってきたのだろうか。

管さんが発するこの問いを反芻する。私は、文芸批評という営みを生きるということに置き換え、そして、本を人と読み替える。自然とそうしている。
「われわれの人生は、『誰』を読むかではなく、むしろ『誰』を読まないかにかかっている」
「人との出会いによって自分の心が大きく左右されてきたことを認める人間であれば、いったい何人くらいの人が、その造形に関わってきたのだろうか」

今もこれまでもこれからも私は本と人との出会いのなかで私を造形してゆく(=私は出会った本と人によって造形されてゆく)、それも誘惑と禁欲と苦行のなかで織り成される出会いをとおして。

そうして、すべての本と人は、私にしるしだけを残して、通りすぎてゆく。しるしは、私と世界のつなぎ目。もしくは裂け目。