昨日、下北沢のB&Bで購入して、深夜から軽い気持ちで読みはじめて、途中でやめられなくなり、一気読み。
書かれているのは、中国からパキスタン、インド、ネパールを経てチベットに至り、そして中国を抜けて帰国する9か月に及ぶアジア漂泊の旅。
でも、これは、いわゆるバックパッカーのよくあるアジア放浪物語とはまったく違う、
藤原新也的な思わせぶりな漂泊の言葉とも違う、
金子光晴的な確信犯の逸脱とも違う、
呼ばれていく、ひきずられてゆく、流れてゆく、抗えない、何か、こういう言い方では伝えきれない、何かとともにある命をかけた旅。
この旅は一匹の餓鬼の出現からはじまる。
ああ、この人はこの宇宙の秘密の底まで突き落とされていったんだなぁ、
それはとてつもなく厳しい僥倖だったのだなぁ、
と、読みながら、だんだんと、戦慄する、居ても立ってもいられなくなってくる。
旅をすれば、いや、そもそもこの世に生まれ落ちて生きてゆくならば、時に、ひとりの人間に背負いきれないほどの僥倖が降りかかってくる、そのとき、本当に耐えきれなければ、死ぬだけのこと、生き抜けば、そこに、生き抜いた者だけがたどりつく世界がある、宇宙がある、それと深く結びついたところに芸術はある、と、書いてみるのだけど、これではまだ陳腐だ、私が『旅行記』に感じた戦慄はまだ整理されてない、きちんと言葉にできていない。
『旅行記」の終盤、筆者は言う。
「我々は雨降って地固まる種族なのだ。自分自身が気づくまで、同じような出来事が永遠に繰り返されてゆくのだろう。それは時に耐え難い厳しさを感じるが、しかし何度でもやり直すことができる。どこまでも慈悲深い」
「思考とは、真実という太陽の光を遮るものである」
「空中に漂っているものは、塵や埃、その他原子云々だけではない。人の想像や偉大な先人からの気づきやメッセージも浮かんでいる様に思う。
余裕無く追いつめられているのなら、その時こそ心と頭に余裕を与えておく。すると勝手に光が入ってくるものなのだ」
あるいは筆者はこうも言う。
「僕は気がつけば、流れてくるものを使って作品を制作する様になったが、漂流物ばかり拾っているうちに、自分が漂流物であることに気がついた。そして漂流物だけでなく全てのことに自分を見た。気の合わぬ嫌な人であれ、町であれ、岩や風であれ、何もかもに自分を見続けた。」
そして、この一言。
「人は行きつくところ星であり、太陽だったのだ」
それを読む私は、その一言をそのまま生きるところまでには、当然に辿り着いてはいないわけで、
でも、そこに辿り着きたいと、痛切に思いもするわけで、
そのためにこそ、『旅行記』というこの書物が、旅ゆくおのれ(=この世を生きてゆくおのれ)を痛いほどに映し出す一枚の鏡として、それこそたまたま私のもとに降ってきたのだと思いもする。
すばらしくおそろしい旅の本です。