声を聴く日

午後、葉山のサウダージ・ブックスへ、群島詩人の声を聞きに。(と、言いつつ、その前段のル・クレジオをめぐるさまざまな話を今福龍太氏が語ったところまでで、私はタイムアウト、後ろ髪をひかれる思いで、新宿へと向かったのだが……)。久しぶりに海を眺め、風に吹かれ、ウグイスやら名前のわからぬ鳥の声が聞こえる、リスが走る、海に迫る丘の水気を含んだ緑の真っ只中の、サウダージ・ブックスというその場所にいることが心地よかった。そこで、かつて、中央アジアのコリアンの写真家アン・ビクトルの写真展を東京で開催したときに御世話になった飯沢耕太郎さんにばったり再会したり、サウダージ・ブックス主宰者の浅野さんから共通の友人である台湾の元気者の消息を聞いたり。海はいいなぁ、風はいいなぁ、人間はいいなぁ、人間の生きる島々はいいなぁ、と無邪気に呟く。

夕刻、新宿職安通り、アリラン文化センター。こちらは、鄭暎惠さんのお誘いで、多文化間のアイデンティティについての話を聞きにいく。講師の指示で参加者同士でロールプレイング(アイデンティティの問題を抱えるクライアント―カウンセラー)めいたこともやったのだが、在日が集まってアイデンティティの話となれば、それぞれに思いがあり、主張があり、葛藤があり、それぞれが話しはじめれば、ロールプレイングどころではなく、すぐさま真剣な本音の対話となって、騒がしいことこのうえなし。面白いのは、民族だ国だという大きなものとの結びついたアイデンティティの葛藤ではなく、(対日本人とか、対韓国人といった、定型の、紋切りの、わかりやすいモデルで表現されるような葛藤ではなく)、自分にとって大切な人(家族、パートナーのような)との、より複雑、より繊細なアイデンティティをめぐる葛藤へと話が収斂されていくこと。そうか、そうか、幾つになっても、みんな悩んでいるんだ、年を取れば取っただけ、生きていくうえでの、また新たな葛藤が生まれ来るんだ……。生きるということは、つまりは、あまり居心地のいいことではないようだが、この居心地の悪さが、生きる力の源のような気もしなくはない。

原稿に追いつめられて過ごす小さな自分の部屋を束の間離れ、風の声を聴き、生身の人間の声を聴いた一日。