“父”たち

相変わらずの猛暑。

二週間前に熱中症で倒れた姉が、熱中症がきっかけとなって急性腎不全を起こし、すぐにでも透析を受けねば命に関わるというような事態となり、ここ数日ひどくバタバタしていた。人間の体というのは、一回バランスを崩すと、そのままあっと言う間に壊れてしまうものなのだということを、あらためてつくづくと知る。しかし、恐るべし、猛暑。

『父を焼く』(上野朱著 岩波書店)。『アボジを踏む』(小田実 講談社文芸文庫)。『70年代の金時鐘論』(松原新一・倉橋健一 砂子屋書房)。済州島から戻ってきて、この数日の間に眺めた“父たちの記憶”を描いた本。父たちは愛情深く、焼かれたり、踏まれたり、蹴られたりしつつ、今此処に呼ばわれている。上野朱、余韻と慈しみに溢れた声。小田実、さっぱりと余計なものを削ぎ落として、なおかつおおらかな語り口。

ここ一、二年、その記憶を受け取り損ねてきた“父”たちのことを、私は想いつづけている。雑誌『風の旅人』の次号に、そんなあれこれに触れた文章を書いてもいる。済州島に向かったのも、そのきっかけの一つに、“父”たちのことがある。まだ記憶は受け取り損ねたままだ。

本日は朝から気分を一新しようと、部屋の大掃除。そして、10月20日みすず書房から刊行予定の『あなたたちの天国』(李清俊著)の翻訳の初校ゲラをチェックする。合間に、『済州島巫俗の研究』を眺めたりもするはず。