基調講演  私の「切れてつながる」

●「君は「空っぽ」だな。」

2010年.大阪・すかんぽにて。
東京で初めてお目にかかって、それからまたすぐに大阪で2回目の出会いのときのことでした。

これは大変ショックな言葉だったのですが、なるほど、確かにそうだ、私は空っぽである、とそのとき私は珍しく素直にそう思ったのでした。

そして、この「空っぽ」認定は、そのときの私にとって大変意味のあることでもあったのです。

思い起こせば、最初に金時鐘という名前を知ったのは、1986年、「ごく普通の在日韓国人」という小編で「朝日ジャーナルノンフィクション大賞」のノンフィクション賞をいただいたときのこと。朝日ジャーナル編集委員の千本健一郎さんという方から、『「在日」のはざま』で」をいただいた。その本は今も大事に持っています。いただいた当時、しっかり読んだはずです。本の冒頭に置かれている「クレメンタインの歌」のことはこの32年間、ずっと記憶していました。

また、このときのことでもう一つ忘れがたいのは、猪飼野の女性詩人宗秋月さんが「ごく普通の在日韓国人」を評した言葉です。その書評のタイトルは「若者よ、偏狭と呼ぶなかれ、わが贈る言葉を」であります。このタイトルだけでも、若者と名指された私には大変恐ろしかった。

そこには、こんなことが書かれていました。

「在日は列島に存続する限り永劫に、その理を問い続ける存在である。」「(日本人の)視界から消えているのは、(在日者の抱える問題ではなく)「何故、在日があるか」の理であるのだ」

おそらく当時の私は、この言葉を身に染みてわかってはいない。

というのも、32年ぶりに読み返した『「在日」のはざまで』のなかに、私は赤ペンでアンダーラインを引いた上でクエスチョンマークを付けているこんな文章を発見してしまったのです。

「在日世代にとって、在日は決して負い目ではない。在日がすでに<一つの朝鮮>だと言いたいのです。思想信条の違い、政見、信仰の違いがあっても、一つ所を移し得ないで生きている<在日>は、何とすばらしい展望だとはお思いになりませんか?」

何がどうわからなくてクエスチョンマークなのか、今の私にはそれこそクエスチョンマークなのですが、とにかく、「おまえは見事に空っぽだなぁ」と今の私は32年前の私に言わざるを得ない。

目に見えるもの、耳に聞こえるもの、しか知らず、つまりは沈黙の中にこそ記憶はあり、記憶の芯の部分には必ずや語り得ぬ沈黙があるということ、人間の真の歴史とは、沈黙の歴史なのだということを、若い私はまだ知りませんでした。

横浜に生まれ育ち、関西に縁の薄かった私は猪飼野を肌で知ることはなかったし、もちろん済州島もしかとは知りませんでしたし、大学に入学した年の出来事だった光州の名は知っていても、4・3は知らず、それはつまり「在日」であることの核心を知らないということであるのですね。

見えない町は、私には文字どおり見えない町だったということなんですね。


猪飼野詩集の冒頭の「見えない町」。

なくても ある町 
そのままのままで
なくなっている町


出会えない人には見えもしない
はるかな日本の
朝鮮の町


どうだ、来てみないか?
もちろん 標識ってなものはありゃしない。
たぐってくるのが条件だ。
(抜き書きしたうえに、順番入れかえてます、ごめんなさい)


ええ、手繰っていきますとも。
さて、もう少し『「在日」のはざまで』のページを繰ってみます。32年ぶりに読む『「在日」のはざまで』は、まるで初めて読む本のようです。



●「なぜ祖国だけが絶大なのか。そこにあるからただ従属させられて当たり前か。」

この言葉は、若くて空っぽの私でもよくわかった、ような気がします。むしろそこしかよりどころがなかったように思います。

あの頃、祖国だとか、国家だとか、民族だとか、わけもわからず私を縛るものを振りほどきたい私がいました。そもそも猪飼野あたりには得体の知れぬ民族が蠢いてるような気がして、怖くて近づけませんでした。で、日本の外へ、朝鮮半島の彼方へ。遠くへ、遠くへと旅を重ねた。

2000年に中央アジアで高麗人に会いました。彼らはスターリンによって極東地域から追放された人々です。1937年に20万人近い人々が、ある日突然、モノのように貨物列車に詰め込まれて、中央アジアの乾いて塩を吹く荒野に放り出された。

日本に戻ってきて、この追放の悲劇を一番わかってくれそうな叔父にしたんです。民族問題の研究をしていた人ですから。私はこの叔父が済州島出身ということをかすかに聞き知っていました。が、それ以上のことは何も知らなかった。

 叔父はそのとき、私はこう言ったんですね。

「君は彼らの不幸を語るけど、彼らの不幸と僕の不幸とどっちがより不幸か、比べることができようか」

私はそのとき初めて肉声の4・3の記憶を聞きました。
叔父は文字通り、済州島で、4・3のさなかにたくさんの死体を乗り越えて、自身もあやうく死体になるところを、瀕死の状態で舟に乗せられて日本に密航してきた人だったのです。それから何度も通って話を聞いて、その記憶を受け取りました。けっしてすべてを話すことなど出来ないと言われながら。

つまり、真ん中のところが沈黙の、ドーナツのような記憶なのです。

そして、沈黙に潜む叔父の言い尽くせぬ思いが、金時鐘の長編詩「新潟」には宿っているかのようで、とりわけこの部分を読むと心がヒリヒリします。



●長編詩「新潟」 第二部パート2冒頭

常に
故郷が
海の向こうに
あるものにとって
もはや
海は
願いでしか
なくなる。


2010年、私が済州にゆくと叔父に言った時に、叔父に言われた言葉はいまも忘れられません。私の空っぽの心にその声が谺のようにずっと響いている。

 叔父は私にこう言いました。

「あの島では誰にも心を渡してはならない」

2010年、初めて済州島に渡った時、その手引きをしてくださったのが、その直前に初めてようやく出会った金時鐘さんでした。猪飼野あたりの詩人だから、会えば怒られそうで、なんだかとても怖かったのですが、もう会うべき時がきているように思っていました。ようやく私のほうに準備ができた。

ふたたび『「在日」のはざまで』をひもときます。



●「詩する者」

時鐘さんはみずからを「詩する者」と書いています。不穏です。それは「死する者」の言葉であるようです。詩とは、死者たちの声なのだなと、おのずと語るような言葉です。

私は済州島を訪ねて、人知れず埋められた者たちがいまだ埋まっているかもしれない土の上を歩きました。みしみしと骨の軋みを聴くようでした、カタカタと舌のない震える歯の音を聴くようでした。収める死者の骨もない空っぽの墓、虚墓に耳を当てました。神房の祀りの場にも行き合いました。神房が脈々と語る死者たちの来歴も聞きました。死者たちひとりひとりの物語が神話のように立ち上ってくること、それこそが鎮魂なのだと神房たちのふるまいが教えてくれました。

ああ、そうなのか、少しずつ分かってきました。
死を全うすることすら許されていない死者たちの声で、日本語で歌う。
それが金時鐘の詩なのですね。
(それは「光州詩片」では、痛いほどに明確です)
 
いかに日本語を破壊して、いかに日本語で歌ってみせるのか、その道筋を時鐘さんに指し示したのは詩人小野十三郎だったというのは、もうよく知られたことです。
その文脈の中で、私は先月の東京のシンポジウムで、金時鐘の日本語とは、たとえば石牟礼道子の日本語とは異なり、風土を持たない日本語なのだとも言いました。 
 
それをもっと確かな言葉で言ってみようと思います。
金時鐘の日本語とは、ついに死をまっとうした死者たちが生きるべき、未来の未踏の風土に根差した言葉なのだと。

さらに『「在日」のはざまで』をめくります。



●「意外と私達は、まだまだ村落共同体が存在していた当時の感覚と思考をもって、差別を言っているのかも分からない」

いまや、すさまじいヘイトの時代です。声をあげれば標的になり、生存すら脅かされます。
なんだかもう生きながら殺されてしまっているような気すらします。それは、40年前に金時鐘が既に語っているように、歴史などお構いなし、身体性もなく、ただ観念の遊戯としてのヘイトが人間を殺してゆく。そういうものとしてのきわめて現代的なヘイトに私たちは取り囲まれているように感じます。切実に。

そして、
「こともなく誰もがつながり つながる誰も そこにはいない」
とは、詩集『失くした季節』のなかの時鐘さんの言葉ですが、戦後すぐの頃からずっと、3・11以降はあられもなく、あからさまに、たとえば、「絆」という言葉一つをとっても、ますます内実を失くしていくばかりの言葉と社会に私たちはらされている。

生き抜きたい私達は、死に物狂い声を放つほかない。
それは、おのれの死すらまっとうできなかった、つまりは生もまっとうできなかった者たちの祈り、願い、問いとともにある声であるほかないでしょう。

その声こそが「詩」なのだということを、「詩する者」である金時鐘の声は語り続けてきたように思うのです。

なにより「詩する者」とは、「生き抜く者」である。

私たちの「生」は、死者たちの願いによって、問いによって、沈黙によって、脈々とつながってゆく。

私もまた、私という「空っぽ」に、願いを収め、問いを収め、沈黙を収め、死者たちの声を響きわたらせる。

そして、つながる。詩する者となる。

しかし、「空っぽ」が「空っぽ」であることを自覚したとき、「空っぽ」であるとは、なんと幸いなことであるか! 

ありがとう、時鐘さん!


ここまで語ってきて、最後に、私は、強烈な声の持ち主であったあの人のことに触れないわけにはいきません。詩人宗秋月です。「若者よ、偏狭と呼ぶなかれ、わが贈る言葉を」という言葉を贈られてから30年。それっきりつながることのなかった彼女と、先月の東京での金時鐘シンポジウムがきっかけとなって出会い直したのです。


今は亡き宗秋月さんの声もまた、私という「空っぽ」の中で響きわたっています。こんなふうに。
  


同じ五月に生きながら 同じ位置に居ない事を
共に死ねない生を恥じた。


年を過ぎ 年を重ねて なお鮮明な 五月の記憶から
解き放たれる 母がいるか。 解き放たれる 女があろうか。



この世もあの世もうっかりすると男の声ばかりが幅をきかすものだから、宗秋月の声もますます強烈。こんなふうに。


「人間やねん。生きてんやねん。朝鮮人やねん。女やねん。」


さて、勢いのついたところで、最後は、『「在日」のはざまで』から、時鐘さんのこの言葉で終わりにしようと思います。

「あるだけの荒廃を経て至る、確かな健全さがこの世にはある。信じていい」