詩を書く野蛮人

初校ゲラ420ページを一通り見て、東中野に「祝の島」(http://www.hourinoshima.com/)を観にいく。本日が最終日で、なんとか滑り込みセーフ。

漁師の民ちゃんに場を持っていかれたバギやん、ちょっと可哀想だったな。と、映画の本筋からはずれた感想から書き付けてみる。いや、実はそんなに本筋をはずれていないような気がしなくもないような…(なんだ、このまだるっこしい言い方は…)。

28年間も暮らしのなかに反原発の闘いをしみこませてきた祝島という離島があって、その闘いの担い手の多くはは70代、80代のじいちゃんばあちゃんだったりして、50代は若手であって、島の小学校にはある家の3兄弟、3人だけで、入学式には参席したじいちゃんばあちゃんの手拍子で「磯節」が歌われたりして、じいちゃんばあちゃんたちは命を育む宝の海のことを語る滋味あふれる智慧の言葉を吐いたりして、島で生きる人々の今日の命、明日の命ががかかっているから「命がけで」原発に反対する姿も描かれたりしていて、(原発推進派との葛藤がもたらすせつない思いにも触れられていたりして)……。

その姿、その光景を、「離島に生きられぬわれわれ」のひとりとして、私は自分自身に対して厳しく冷徹に心して観よと命じざるをえない。「離島に生きられぬわれわれ」のひとりとして、「命がけで」観て、考えよと自分自身に言わざるをえない。簡単に感動するなと自分を戒めざるを得ない。
何を言いたいのかって? 映画の中で描かれている島共同体は、人間が失ってきたもの(私が持たないもの。たとえば、自然とのつながり、人と人との絆のありよう、世代から世代への思いの受け渡し……)への郷愁を強烈にかきたてる、そして、下手すると郷愁に浸って酔って、自分には既にないものに拠って立って考え、語りだしそうな自分がそこにいる。だからこそ、自分はあそこにはいないんだよ、今の自分の立ち位置に引きもどして考えて語らねばいけないんだよ、自分の立ち位置で命がけで何ができるのか考えなくちゃいけないんだよと、ことさらに自分に言い聞かせる。

人間が生きるってことは、いつも、どこでも、命がけ。その「命がけ」の生の向かう方向が、置かれている立場、状況で、千々に乱れていく、そういうものとして今の世界がある。原発がそこにつけこんでいるのか。そもそも原発というものを作り出したある種の思考が、千々に乱れる命という状況を生み出したのか。(上関原発をめぐる魑魅魍魎の今現在についても具体的に考えねばならないのは勿論のこと。当然、魑魅魍魎は退治したいに決まっている。それを重々承知したうえで、だからこそ、一度はわざわざ迂遠に考えてみる)。

こういうことを考える時、いつも頭に浮かぶのは、「アウシュビッツの後で詩を書くのは野蛮である」というアドルノの言葉。突きつけられる難問:「詩を書く野蛮人たちの世界の住人である自分」「野蛮人たる自分」という確かな意識を持って、野蛮に対峙せよ。
そういう難問に、命がけで立ち向かわねばならないのが、「もはや離島には生きられぬ私」なのだ。それこそが、映画「祝の島」を、あらためて、何よりも、強く痛切に思ったことだった。