久しぶりの休日。今日は9月14日に生まれた孫(!)に会いに行った。孫誕生の報に親しい詩人がある韓国の作家の言葉を贈ってくれた。「孫とは、天が老年にくださる最後の贈り物」。そうなのだろう。老年(=人生の新しいステージと言い変えよう)にいまひとたび出会う無垢なる存在。贈り物に感謝。新しい命の到来に心から感謝。
月曜から木曜の4日間、恵泉女学園大学「文学方法論」集中講義では、芥川賞受賞作『乙女の密告』を学生たちと読んで語り合った。作家が作品を書くあたって主人公の女子大生たちをくくる概念として(人間一般の戯画化として)用いた「乙女」と、作品を書く最初のきっかけとなった「アンネ・フランク」(人間社会における他者)、それをリンクさせることによって成立したこの作品を、講義の最初に、まずは先入観なしに読んでもらい、感想を書いてもらったうえで講義はスタートした。
女子大の文学乙女(この乙女に深い意味はなし。単に女子大生)たる彼女らが漠然とながら一様に語ったのは、アンネ・フランクの参照のされ方への違和感、戯画化されきわめて単純化されて描かれる「乙女」の世界への違和感、「アンネ・フランク」が表象する世界(学生らにとって)と作中の「乙女」の世界の「温度差」への違和感。作家が何を言いたいかがわからなくて戸惑うという感想も。わからなさの実体が、そこに何か意味深いものが潜んでいて読み手がそれに立ち向かう快感のあるわからなさというよりも、何か本当に大切なことが目くらましにあって見えないといった感覚を伴うわからなさ。そういった趣旨のことを学生たちは最初に感想文として書いた。
違和感、温度差、わからなさ、という感覚が何に由来するものなのか、それを解き明かすことを通して、表現者にとっての切実なテーマと、そのテーマによっておのずと選び取られる文体、表現手法といったことを共に考えるというのが、今回の集中講義の目的だった。
講義においては、迂遠ながらも、この世界における他者としてのユダヤにまつわるさまざまな表現に触れ、他者とは何者なのか、そもそも人間ってのはいかなる存在なのかという問いをあらためて想い起こすという作業をしていった。
アイヒマン裁判の記録『スペシャリスト』を観る。開高健とハンナ・アーレントのアイヒマン裁判傍聴の報告に触れる。ついでに心理学のアイヒマン実験にも触れる。アウシュビッツのユダヤ人オーケストラにまつわるNHKのドキュメンタリー『死の国の旋律』を観る。シャガールの絵を入口にユダヤの伝統音楽クレズマーの世界に触れる。ドキュメンタリー映画『キングズ・オブ・クレズマー』を観る。ナチスによる最終解決によってこの世から姿を消した人々の姿を写真にとどめている『或る消滅せる世界』の写真の数々を観る。その写真をこの世に残したローマン・ヴィシュニアックの言葉に触れる。エリ・ヴィーゼル『夜』の堂守のモシェのエピソードを想い起こす、等々……。
『乙女の密告』という小説は、きわめて明快なロジックで構成されている。これを読み解くのは、数学の証明問題にも似た作業で、与えられた定義と定理に則って読み進んでいけば解が導き出せるような、そのような類のきわめてロジカルな構成。
作者は作品中で、重要キイワードに繰り返し定義を与え、登場人物のキャラ(役割)設定、小道具の意味づけもきわめて明快に行い、登場人物たちの行動の法則も明確に提示する。そして、ある場面での登場人物の言葉や行動が、次なる場面の登場人物の言葉や行動を読み解く練習問題(=伏線)にもなっている。つまり、それが、表現においては、深く考え抜かれた「戯画化」という手法となっているわけでもあるのだが、(そう、作者はこの作品の構成を実に注意深く、とことん考えぬいている。その点においてはプロの仕事と言えるだろう)、そして定義と定理に則って練習問題を積み重ねていけば、証明は完了するはずなのだが、(作品世界はすとんと読み手に落ちてくるはずなのだが)、しかし……。
「乙女」が表象する一般名詞としての「他者」、もしくは乙女たちにとっての一般名詞としての「真実」がある。「アンネ」が表象する絶対的な固有名詞としての「他者」、もしくは「真実」がある。それが無前提に区別のつかない形で文章のなかに混在すること、それが読み手に混乱、もしくは違和感を引き起こさせる源になっている。作者が確信犯的に採用した意図的なダブルミーニングと受け取ることもできる、意味を巧みにずらしていくことによって「乙女」に「アンネ」を引き寄せていく、そういう手法。ただ、この意味のずらしという手法が成立するのかどうか、実は、それこそが『乙女の密告』の成立においては、何よりも問われなければならなかったことのように思われる。
この問いを前提として持っていながら、作品としてまとめるために、確信犯で問いを置き去りにして、「乙女」と「アンネ」を結びつけるということに作品の醍醐味を求めたとすれば、かなり乱暴。問いに気づかずに対称の妙のみに心ひかれて結びつけたとすれば、かなり粗雑な思考なのではないだろうか。
作者が作中でキイワードとして使い、今後の自身の文学に対する構えとしても使った「血を吐く」という表現は、たとえば、血を吐くようにして「乙女」と「アンネ」を結びつけるための論理と構成を考え抜くというようなことではなく、なによりもまず、「乙女」と「アンネ」の間に横たわる問いを血を吐くほどに考え抜いぬいてこそ生きてくるはず。そこにこそ、文学の場所があるはず。
おそらく、「乙女」と「アンネ」の間に、この人間世界における他者をめぐるもっとも根本的で困難な問いが横たわっている、というようなことを読み手が前提としてもっているか否かで、この作品の評価は大きく二つに分かれる。その意味で、多くの選考委員が微妙な揺らぎをにじませている芥川賞選評は、かなり興味深かった。