対話という約束

いきなり夏が飛び去った。きっぱりと秋が来た。寒い。こういう日は、やや人恋しい心持になる。

ここ数日、文芸創作の学生たちから、続々作品提出。テクニカルな部分、表現上のこまごまとしたことへの注文はもちろんあるけれども、それよりも彼女たちの生の核心から否応なしに漏れ出てくる声に耳を傾ける。その声が求めている言葉、表現を彼女らと共に考える、彼女たち自身がそれを探し出す手伝いをする。彼女らの声がより自由に、より遠くへ届くよう、願いを込めて。

本日、済州島の詩人許英善さんから、彼女と私が交わした対話をもとに済民日報(9月10日掲載)に彼女が執筆した文章が手元に届いた。恐ろしいほどに見事に捕まえられた、という印象。記憶をめぐって、文学をめぐって、人間をめぐって語り合ったことを、許英善という詩人の言葉でいま一度差し出されて、いま一度自分自身を直視して、いま一度書くこと生きることへの覚悟を迫られたような思いがした。さあ、腹をくくれ、姜信子! 語ったことの重みをしっかりと背負え! 気恥ずかしくも、切実な、そう、ひどく切実な心境になる。

対話とは、約束なのだな。

資料整理をして、図書館に返却しなければならない本の重要部分のコピーをとり、一段落したところで、ふっと思い立ち、映画『悪人』をレイトショーで観る。原作は読んでいない。李相日監督、あざといくらいうまいな。やや説明しすぎの感ありだけど、流れに乗せられて観るのも、時にはいいかと思いもする。映像のなかの人間模様を眺めつつ、「本気で生きる」「本気で思う」ということを考えた。

約束とは、本気の言葉なのだからね。



今日、出合った懐かしい言葉を一つ。
われわれが抱いている世界についての考えを変えること、それがシャーマニズムの核心である。そして「内なる問答」を止めることこそが、そこに到達するただひとつの道なのである。 - カルロス・カスタネダ