物語

済州島巫俗の研究』(玄容駿著 第一書房)を読んでいる。済州島で見たクッ(=굿 巫儀)の想い起こしつつ。

玄容駿氏の述べるところによれば、シャーマンたる神房(シンバン)がクッの場に神を迎えるにあたって、二つの儀礼形式が複合しているのだという。一つは天から降臨してくる神を迎える「垂直的降臨型」、もうひとつは神がやってくる道を掃除して迎え入れる(=神は陸の彼方、海の彼方から、道を伝ってやってくる)「水平的来臨型」。

「水平的来臨型」とは、沖縄のニライ・カナイとも相通ずる、『マレビト信仰』と言えるのだという。神霊が水平的に来訪し、村人に迎え祭られて帰って行く、たとえば石垣島・川平の「まゆんがなし」のような、あるいは同じく四箇字の「アンガマ」のような、もしくは宮良の「アカマタークロマター」のような、そんな『マレビト信仰』。

神を迎えるにあたり、神房は神の来歴(=神話)を杖鼓を打ちながら語る(=歌う)。神々を相手に、神に向かって歌う。「人間が聴いて楽しい物語は神も聴いて楽しい」「神々を楽しませ、神々の心意を動かすための物語を人間も傍らで聴いて楽しんでいる」。

はじめるにあたって神房は、神に向かってこう奉言するという。
「神はポンプリ(=神話、神の来歴)を歌うと興趣を覚えて楽しみ、人間はポンプリ(=人間の来歴)を歌うと百年の仇になることなので、ここにポンプリ(=神話)を歌い上げます」。

つまり、人間は過去を暴きだされるのを喜ぶわけがないが、神はそれをとても喜ぶのだと。

そうして、神を称え、喜ばせ、神話のなかの神の力を今この場に及ぼしていただくよう、この場が神と人の対話と交感の場となるよう、神房は歌うのだという。

最初に人間のもとに来訪した「マレビトの物語=神の物語=人間にとっての最初の物語」は、こうして繰り返し、人間に語り聞かされることとなる。この世で生きていくうちに暴かれたくない過去を積み重ねてきた人間が、この世で生きていくための物語として。

「굿 巫儀」は、魂を落としてしまって病んでいる者の魂を取り戻して込めなおす「魂込め」の儀式としても行なわれる。人間は生きながらも魂をむやみに落としてしまう存在で、それを取り戻すにも物語が必要なのである。