草津温泉バスターミナルにて。

1月18、19日と、みすず書房の川崎万里さんとともに、群馬・草津温泉近郊の国立ハンセン病療養所栗生楽泉園に詩人谺雄二を訪ねてきた。今年5月のハンセン病市民学会に向けて谺雄二全文章(というわけにはいくまいが、心意気は全文章!)を一冊の本にまとめるべく奮闘中なのである。

で、谺さんと激しく打ち合わせをして、東京に戻るために草津温泉バスターミナルの喫茶店でバス待ちをしていたそのとき、まるで地上でスキーをするかのように、両手にスキーのストックをもったご老人がすいーすいーとターミナル待合室から喫茶店の奥へ奥へ、私たちが座っているテーブルの方へとやってきた。そして隣の席にどさりと腰を下ろして、「やあ!」。あたかも旧知の間柄のように、いきなり話し出す。

私はさ、戦前は軍に召集されて満州チチハル。その前はニューギニアニューギニアに向かう船が敵に撃沈されて私はたったひとりの生き残りだよ。三日間、丸太に捕まって海を漂ったよ。丸裸だと寒いんだ、だから、服を着ていたほうがいいんだと、いきなり脈絡なく、マシンガントーク

それからチチハルに行かされて、そのままシベリア抑留3年半、帰国は昭和24年。寒かったよシベリアは、食べ物もないんだ、あそこは。ある日、飢えてる私たちに軍医どのがなんでもいいから骨をできるだけたくさん拾ってこいというから、雪の原野の雪を掘り起こして、獣だか人だかわからない骨をたくさん拾い集めてきたら、今度はそれを粉々に砕けと。骨を粉砕したら、軍医殿がそれを水に溶かして飲めと言う。飲んだよ。飲んだ者たちが生き残った。飲まなかった者たちは一週間持たずにばたばた飢え死んだ。

昭和24年帰還して、私は大工だからね、40〜50人もの大工を率いる棟梁だからね、ほら、ここから近い、あのハンセン病療養所の建物も立てたさ、ここのバスターミナルも私がやったよ、ここは昔は墓場だったのさ。

おいおい、俺の歯を見ろ、まだ全部自前だぞ。俺の髪を見ろ、白髪頭を茶色に染めてるのさ、おしゃれだろ、おれは92だぞ、そうは見えないだろう、今日は東京からやってくる彼女を出迎えにここに来たんだよ、彼女とは5年前にこの草津でばったり再会してね、いい女だよ、頭のいい女だよ、ねえさんたちは草津の人じゃないだろう?東京からかい? 東京の人はやっぱりきれいだねぇ。

スパゲティがきて、ビールがきて、おじいさんのマシンガントークはようやく収束。ふーーーー。
ありがとね、おじいさん、いいお話だったわ。