佐渡への旅の支度。 メモ。

ちょっと手間のかかる校閲作業を終えて、一休み。
さあ、佐渡の安寿伝説を訪ねる旅の準備を始めよう。

森鴎外の「山椒大夫」のもとになっている説経節「さんせう太夫」は、人形浄瑠璃瞽女唄、イタコのお岩木様一代記とさまざまに語られ歌われ日本各地にさまざまな形で、まるで「さんせう太夫」の物語が本当であったことかのような伝説を残している。

佐渡には佐渡の、佐渡の風土に根差した伝説がいくつも。
森鴎外版では丹後由良で入水自殺した安寿は、佐渡で演じられてきた文弥節の人形芝居では、山椒太夫の拷問を生きのびて佐渡までやってくる。
その物語展開に添った安寿伝説が佐渡のそこかしこにある。

口承の物語の場合、
(近代以前、庶民が享受した物語は「読む」ではなく、「聴く」という形で声をとおしてやってきたということを想い起こしつつ)、
夢と現、虚と実、彼岸と此岸、今と昔、といったことの境目は、今を生きる私たちのような認識では受け止められてはいなかった、私達が見失ったなにか世界の別の認識のありようがそこにはあった、と私は最近つくづくと感じている。

そんなことを思う時、私が思いうかべるのは、
保苅実の『ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』。

あるいは、ブルース・チャトウィンの『ソングライン』。

「歌は土地に名前をつけ、歌った土地を超えて存在しつづける」(マルティン・ハイデッガー『詩はなんのためにあるのか』より)

これはブルース・チャトウィンが『ソングライン』のなかで引いている言葉。

人間が世界を形作るために歩いてきた歌の道がある。歌うことで真実となる世界がある。語ることで真実となる世界がある。
まず世界があるのではない。私たちの声が創りだす世界があり、人はその世界を歌いながら語りながら生きる。
そんな人と声と世界のありようを、近代の論理の彼方にいまいちど、さぐりなおす、そんな旅を夢見つつ、一歩一歩歩いてゆく、
佐渡の旅もそんな一歩のひとつ。