長岡でテンポウ語りについて聞く。

旅というのは、きちんと目と耳を見開いて、モノ・コト・ヒトとの出会いを大切に歩いていけば、縁と縁とがつながり結ばれて行って、思わぬ道を拓いていくもの。今日の出会いが、明日の出会いを呼び、今日見聞きしたものが、明日の旅の道しるべ。
旅の極意は、わらしべ長者。と、私はかねがね思っている。

さて、7月5日に、長岡の歴史博物館にて佐渡の文弥人形・真明座の公演を観た際に、ロビーの古書市で目にした『長岡の民俗』の「テンポ語り」や、それと同じ項に登場する五色軍談、チョンガレ、瞽女といった遊芸人たちのことがどうにも気になって仕方なかった。

そこで、新潟・新発田人形浄瑠璃猿八座の稽古に行ったその帰途に、(私は猿八座の座員で、今のところは三味線で参加)、
友人のきゃさりんの紹介で、長岡に鈴木昭英先生を訪ねた。瞽女研究、「語り物芸能」研究と言えば、長岡市郷土資料館の元館長の鈴木昭英さん、この方をおいて他にはない。

訪ねる前に、新発田の稽古場で、新発田出身の座員に、「テンポ」という言葉を聞いたことがあるかと尋ねてみた。すると、「嘘」「でまかせ」「ほら」という意味で、「テンポウこくな」(=嘘こくな)という意味で使うという答え。ふむふむ。

そして、鈴木先生いわく、「おとし話」、とほうもないでたらめを面白くおかしく早口で語る「ほら話」であると。

たとえば、こんな調子。

「それ、てんぽうがたりかたり候。富士の山に火がついて、めくらが見つけ、きんか(=つんぼ)が聞え付、足なしがとびこみ、手なしがもみけしたりのものがったり」

「それ、てんぽうのものがたりかたり候。天竺の鎌三郎が買ふたる牛の角は、七曲まがりて八そりそり、九のくねりくねりて、くねりくねりめに毛が生えて、ねぢかたまったりのものがったり」

「そうらテンポウ語って語ったるや、候や候。近江の湖 火がついた。めくらが見つけて、足なしがとんで出て、手なしがもみ消しやして、三尺てぬぐいをつえにして、三尺棒を鉢巻きにして、ハイ、これもテンポウものがたーる」

まったく不勉強であったのだが、そもそもは盲僧琵琶が平家を語るとき、その合間に「テンポウ」を語ったのだという。節をつけてゆったりと長く語る「平家」と、節なしで早口で語る「テンポウ」と。菅江真澄の「鄙廼一曲(ひなのひとふし)」にもその記述があるという。

しかも長岡あたりでは、幕末から近代にかけて、座頭の表芸が「平家」から「チョンガレ語り」に移り変わっていったときに、テンポウはそのまま門付けの芸として継承されていったらしい。テンポウ語りは、芸能の世界に入りたての初心の者がまず習い覚え、これを正月の門付で語り歩いたものだともいう。

明治も末の頃の長岡・表町では、正月に町内を門付けする瞽女三河万歳、テンポウ語りの姿があったともいう。

また、江戸の頃の記録によると、新発田あたりでは、年越しの夜に座頭が門々に立ってテンポウを語ったともいう。
新発田の人が、今でも「テンポウこき(=嘘つき)」と普通にわかるということに素朴に感動。テンポウ語りがどれほどに暮らしの歳時記のなかにしみこんでいたのかと、しみじみ思う)。

この項つづく。