テンポウ語りとくれば、「五色軍談」

「五色軍談」というのは、「チョンガレ」の中越地方における異称。幕末から近代に一世を風靡。もとを正せば、説経祭文だという。これを小沢昭一の『日本の放浪芸』で聴いてみたのだが、薩摩若太夫の興した説経祭文に比べると、野太く、素朴。三味線の響きは津軽のようにも聞こえるし、その粗削りな感じは瞽女唄にも通ずるように感じる。


平家&テンポウ語りの盲人たちの語りの伝統は、五色軍談のなかにも受け継がれている。つまりチョンガレ&テンポウ語りのセットになる。そして、瞽女もまた、その滑稽話を受け継いでいる。

瞽女とチョンガレ、祭文、その交流は芸能の場において日常的にあったのであろうし、瞽女
祭文語りが結婚することも多かった。


たとえば、最後の長岡瞽女小林ハルは、山形県の米沢で祭文語りと20日間も同宿となり、そのときに聞き覚えた「信徳丸」の祭文の文句をもとに、瞽女唄では習い覚えなかった部分を創作したという。
宿では、瞽女唄が終わると祭文語りの出番となり、小林ハルは寝ながらその文句を聞いて覚えたのだという。

結婚ということでいえば、五色軍談の川上派の川上金丸は長岡瞽女才津組の関根ヤスと結婚している。

また、川上松月も、長岡瞽女のおリセと結婚している。

鈴木昭英先生曰く
「越後においては、語り物芸能の保持者として(ゴボウ、ザトンボなどと呼ばれてチョンガレを担ってきた盲人の座頭を)、瞽女とともに忘れることができない。ただ瞽女の組織は厳格で固く、遠隔地まで巡業する実績を示したが、座頭はそれに比すべくもなかったようである。しかし、瞽女唄がものの哀れをより強く歌って世人の共感をかったに対し、チョンガレは武勇・仇討・政談・人情ものを題材とし、勇壮な物語りを好んで取り扱った点、いかにも男性的である」


瞽女・チョンガレはまさに、語り物文藝の担い手の双璧であった」


ちなみに、五色軍談の流れのなかには、東京に浪花節修行に出て、木村友衛の弟子となって、木村友男の名前をもらった、「川上南楽」がいる。
こういうふうにして、チョンガレ(五色軍談)は浪曲へと移り変わっていきもしたのだろう。