貝祭文(デロレン祭文)は、平安時代に起こった山伏祭文の血脈を引くという。

近世寛永頃に上方において山伏祭文から派生した「歌祭文」、
江戸の山伏祭文とかかわりの深い「説経祭文」、
その成立を貝祭文から推測するというアプローチ。


<古代の祭文から貝祭文への流れ>

1・そもそも祭文のはじまりは古代、「仏教・神道陰陽道儒教等において、祭祀の際に、祭神や亡霊に奏上する祈願の文」。

2・平安時代になると、「山伏の手に渡り、山伏祭文となり」、

3.さらに中世になると、「娯楽的要素を加えてもじり祭文となって人口に膾炙した」

4.江戸時代寛永の頃、「上方において歌祭文が派生」「巷間の話題をとり上げ、心中物・恋愛物・犯罪物、あるいは追善物等を語り人気」

5.近世後期、「江戸の地において山伏祭文から説経節の後裔なる説経祭文―薩摩派・若松派として盛行―が誕生」

6.そして、貝祭文もまた江戸の地に出現。


<貝祭文とは>
1.デロレン祭文、デロレン節、あるいは左衛門、祭文、金杖祭文などと呼ばれる。
2.発生母体が山伏祭文
3.「小型の法螺貝と錫杖(手錫杖)、それも頭に金環のついていない「金杖」を伴奏楽器とする。
4.独特の白声(しゃがれ声)で物語りを語り、語りの口調は講談ないし浪曲ときわめて近似。


<貝祭文は説経祭文に押されて地方へと中心地を移してゆく>

1.江戸市中に興った説経祭文は幕末より近代にかけて江戸周辺農村部に絶大な支持者を得て盛行。
2.押された貝祭文は、武州北部の岡部・小島等に本拠地を置く。
3.さらに、福島・宮城・岩手・山形・秋田・青森等奥羽地方に中心地を移してゆく。


<山形の貝祭文>
1.昭和15年当時、山形県演芸共和会所属祭文語りは、70余名。年中渡世30名。
  農閑期に山形・宮城・岩手・新潟等を海岸地方にまで巡回。

2.現在はほぼ消滅。


<上州の貝祭文から江州音頭へ>
1.近世末期文政頃(1818〜)、上州小島大住院(山伏寺。大重院、大寿院とも)に貝祭文の一大根拠地。
2.小島に隣接する榛沢郡岡部村の山伏万宝院(桜川雛山)が江州に旅し、近江国神崎郡神田村において、西川寅吉(後の桜川大龍)に祭文を伝授。
3.寅吉は後輩の奥村久左衛門(初代真鍮屋弘文)の助力を得て、祭文を音頭に仕立てる。


<なぜデロレン?>

1.「演者は本題にはいるまえに、最初は「貝」あるいは「声調べ」を行なう。法螺貝を口に当てて、吹くのではなく、拡声器代わりにし、約五分間にわたって、「デロレン・デレレン」と発声を続けるのである。この特徴的な発声は「デロレン節」呼称の由来ともなった」「口演者が声を調え、座席を落ち着かせるための演奏」

2.しかし、山形の計見一風は、これを「悪魔払い」という呪術的意味を持つと、断言した。