そもそもは「説経」とは、仏教の「唱導(仏法を説いて衆生を導く語りもの)」を源とする。
唱導師による「説経」。これは、関山和夫によれば、「節付説教」の意。
単なる説教(法話)ではなく、語りのパフォーマンスになっているということ。
これは、たとえば、寺の単なる法話と節談説教との違い、あるいは、キリスト教会の牧師の説教と、黒人教会の牧師の歌い語り踊る説教との違い、というふうにも言えるだろうか。
※ 「説経(せきょう)の講師は顔よき……」(枕草子)
◆説教(唱導)から説経節(説経浄瑠璃)へ その1 (郡司正勝)
仏教の説教から唱導師が専門化され、声明からでた和讃や講式などをとりいれ、平曲の影響を受けて民衆芸能化したものが説経節である。
平安朝の中期に三井寺所属の説経僧が経文の俗解をしたり仏菩薩の縁起を説いたりしているうちに音声的要素が次第に強まり、室町末期には浄瑠璃より先にすでに人形と結んだものもあり、ほとけまはしと呼ばれたという』(『上方演芸辞典』より)
鎌倉末~室町初期の頃に、唱導の節付説教が芸能化して、それを語る放浪芸人が現われる。
また、各地に、説教僧をまねて「説経」を業とするものが現われる。民間の唱門師(声聞師)の出現。
唱門師らは、仏教の譬喩因縁ばなしをササラ、鉦、鞨鼓を伴奏として語り歌い、門付けして歩いた。ゆえに「門説経」とも呼ばれる。
あるいは、歌の側面を強調すると「歌説経」。
「門説経」「歌説経」は放浪芸の系統。
一方、人形操りと一緒になった小屋掛け興行系統の「説経座」もあった。
説経座は関清水蝉丸宮の配下に属していた。
芸能としての「説経」の正本は、江戸初期、寛永の頃より盛んに出版された。
「五衰殿」「阿弥陀胸割」「梵天国」「目連尊者」「釈迦の本地」、
「山椒太夫」「刈萱」「俊徳丸」「小栗判官」「愛護の若」等々。
仏教色(本地物)・物語の単調さ(大胆な脚色ができない)ゆえに説経座は衰退。
放浪芸として命脈を保ってゆく。
そして、江戸後期に、祭文・ちょんがれと結びついて寄席演芸となっていた「説経」に、三味線をつけて再興したものが登場。「説経祭文」。薩摩若太夫による。
※説経祭文語り 渡部八太夫はその13代目(現在は名跡返上)。
薩摩派説経祭文もすぐに飽きられて、江戸の寄席から消え、若太夫名跡は6代目から江戸を離れ、板橋、多摩地域で受け継がれてゆくことになる。
さらに、放浪芸に立ち返った説経祭文は旅する芸人によって、さまざまな地方へとその痕跡を残すことになる。
放浪芸としての「説経」は、定まった座を持たず、寺の縁日などで小屋掛け興行をした。それゆえ「説経」の太夫は寺院との関係が深かったともいう。
多摩の「説経祭文」の場合は、その担い手は神楽師であったり、陰陽師であったり、いずれにせよ、その土地の芸能を担う者たちによる。
(多摩や相模や埼玉の神楽師たちが、土御門から陰陽師の免状をもらっていたのは、芸能者として興行をするため、と推測される)。