戦後日本で、沖縄のさらに南の八重山の小さな島・石垣島で起きていた出来事は、同時期、朝鮮の済州島で起きていた凄惨な事件ともつながる、その後の、民主主義の使者として米軍が乗り込んでいったあらゆる場所にもつながる。島だからこそ、あらわに見えることがある。
「八重山メーデー事件」。米軍政府によって封じられたメーデー。
戦後、軍国主義から解放された島の青年たちは、民主主義を語り、文化もまた八重山ルネッサンスと言われるほどに一気に花開いていった。
ところが、1948年5月1日、
「八重山民政府の人事行政における官僚的、天下り的人事を排撃し、個々の人格を飽くまで尊重する民主主義的明朗人事を要望す。郡民幸福のために平和的、民主的、教育的方法による民主革命のため全面的に闘争することを声明す」
この声明が問題視され、中心メンバー二人が逮捕、米軍政官が判事となる軍事法廷で裁かれ、6か月の重労働の刑に処せられた。
こうして、アメリカのいう民主主義の虚妄が一瞬にして示された、と「八重山メーデー事件」をとおして大田静男は語る。
「人民の権利と義務」として保障されるはずの言論、集会の自由は、米軍政府の意向に沿うものでない限り弾圧された。
幻のメーデーのために島の女子青年団が48枚の布を縫い合わせて作ったメーデー旗は、米軍による押収を免れるため、ひそかに東京の島出身者の弁護士のもとに届けられた。
その旗は、1950年、沖縄青年同盟の手で、東京の中央メーデー会場で翻り、そして1952年のメーデーのデモ隊と警察隊の衝突の騒乱のなかで失われた。
大田静男は言う。
「メーデーの歴史は資本家や国家権力との苦難の闘いであった。八重山の労働者、市民は米軍政下で民主主義を一歩一歩勝ち取ってきた。今、戦争法案が成立し、安倍政権は憲法改正を目指している。石垣島にも自衛隊配備が計画されているが、八重山に基地を置く必要性などまったくない。自衛隊は軍隊であり、軍隊は住民を守らない。戦争がはじまれば、労働者は権力の走狗とならざるを得ない。市民は死亡者台帳に名が刻まれるだけだ」