説経は大道を本拠地に、説経芝居になっては廃れ、廃れては説経祭文となり、また舞台へ、そして……。


そもそも、説経のはじまりは、
「もとは門説経とて、伊勢乞食ささらすりて、いひさまよいしを、大坂与七郎初て操にしたりしより、世に広まり玩びぬ」(『好色由来揃』より)

★承応(1652〜55)・明暦(1655〜58) 大道から説経による人形芝居の成立へ。


「元禄(1688〜1704)の江戸には、説経芝居が三座あった。天満八太夫と江戸孫三郎は堺町に、あずま新四郎は霊厳島に、いずれも繁盛であったが、享保になっては、急に棄たれ果て」た。


★一方、元禄版『人倫訓蒙図彙』には、門付説経が三味線・胡弓・ささらに和しているところが描いてある。説経芝居が流行る一方で、大道芸としての説経も生きつづけていた。


説経節初り年号知れず、延享(1744〜1748)年中の頃江戸又は田舎祭礼等に折節興行有。(中略)人形は裾より手を指込で一人遣ひにて見合は今ののろま人形也、古風なるもの也、隅田川刈萱抔段物の操致せしを覚へいると老人の物語り言伝ふ」(文化(1804〜)の頃の『江戸節根源集」より)


★説経芝居の記憶はあっという間に消えてゆき、説経節はもとの大道へ。


こうして廃れた説経節を、寛政の頃(1789〜1801)に二人の山伏(小松大けう・三輪の大けう)が大道にて語っていた。


「説経と祭文とは別なものであるのに、説経祭文といって、一つのもののようになったのは、山伏が説経を語り伝えたからであろう。祭文は山伏の得意とする者で、錫杖と法螺の貝とで読むのである」

★そして、また、説経節大道から舞台へとあがる時代がめぐってくる。