足尾・松木沢のはげ山と谷中の荒野はともに約3000ヘクタールという広大な面積を持つ。その二つが渡良瀬川によって結ばれている。


日本近代は、
山〜海〜天をめぐって流れて地を潤し、生きとし生けるすべての命に恵みをもたらす「水」の道を断つところからはじまった。
「水」を毒を以て濁らせことからはじまった。
「水」によって生きる命を殺すことからはじまった。

日本近代の「富国強兵」「殖産興業」の出発点は、明らかに、そこにある。
「富国強兵」「殖産興業」。日本近代のスローガン。
そこに権力も富も持たない民の姿はあるか?

足尾〜水俣〜福島〜〜〜〜  滅びるまでこの「〜」の連鎖は続く。


明治10年西南戦争の年に、古河鉱業による足尾銅山の採掘ははじまる。
明治12年には既に渡良瀬川流域の足利郡吾妻村の村会にて、足尾鉱毒の被害が明確に語られ、栃木県知事に上申書を提出している。

それは、『田中正造』(岩波新書 由井正臣)によれば、
「このまま放っておけば渡良瀬川沿岸の村落はまもなく「荒蕪の一原野となり村民ことごとく離散せん」と予見するとともに「一個人営業のため社会公益を害する者につき、その筋へ稟請の上、該製銅所採掘を停止し、渡良瀬川沿岸村民の農業を増進」するよう希望する」という内容。


一方、農商務大臣陸奥宗光の息子が足尾銅山経営者の古川市兵衛の養子であることに示されているように、政ー官ー財の癒着は深く、
明治24年田中正造の議会における質問に対して、政府は足尾鉱毒を否定する立場を取る。

同時に、栃木県知事主導の示談工作により、
明治25年、栃木・群馬二県 関係町村43か町村を対象に、最初の示談契約。
古川市兵衛が「仲裁人の取扱に任せ徳義上示談金」の一定額を支払うのと引きかえに、被害者は「明治二十九年六月三十日迄は粉鉱採集器実効試験中の期限とし、契約人民は、何等の苦情を唱うるを得ざるは勿論、その他行政及び司法の処分を乞うが如き事は一切為さざるべし」とするものだった。
岩波新書田中正造』より)


さらに、明治28年鉱毒被害がますます目にも明らかになってきたために、上記示談契約の期限が切れる前に、被害民の口封じを本質とする「永久示談契約」が結ばれる。
(これ、水俣病の時にも似たようなことが繰り返されていましたね。操業をやめないための、責任を回避するための、見せかけの解決としての、示談。)


近代の悲惨なはじまりの風景