そうか、ほんとうに生きるためには<野垂れ死にの精神>が必要なのだ。と痛切に思う。これは「問いの書」。生き惑え、生きなおせ、そのためには他の誰でもない自分の目で世界を観よ、自分の体で世界を感じとれ、と覚悟を突きつける「問いの書」。 


金満里。1953年生まれ。在日朝鮮人二世。母親は朝鮮古典舞踊の芸能者。
三歳でポリオを発症し、首から下が麻痺という重度障害を生きることになった。
そして今は演者は身障者だけの劇団態変の主宰者。
その人生の身世打鈴を読む。


・施設に隔離されるように収容された少女時代、

・施設内の中学卒業とともに施設を出て、家にこもるほかない状態で過ごした思春期
(60年代、重度障害の子どもは高校に行くこともほぼ不可能な状況に置かれていた。社会的にはいない存在とされていた)、

・ようやく重度障害でも受け入れてくれた近畿大学付属高校通信課程に入学。(社会のなかで生きる、ということへの思いは、通信課程のスクーリングでは果たされない。生徒間の交流のない、人間関係の生まれない教室)

・CP者(脳性麻痺者)の障害者運動組織「青い芝」との出会い。障害者の主体的な自立解放の運動へと突き進んだ19歳。

・「障害者は親から離れて家出しよう」(青い芝の自立の勧め)。障害者運動をしながら、家ではすべて家族に身をあずけて頼っている自分の矛盾に悩んだ末に、ついに家を出た21歳の頃。

・青い芝の分裂。青い芝からのPC者以外の切り離し。青い芝のように健常者組織があるからできる障害者運動であってはならないという思い、「野垂れ死にの精神」で文字通りの自立を選んだ24歳の頃。

・劇団態変を立ち上げた28歳の頃。そして、それからの人生。


こうやって、時系列で簡単にまとめてしまうと、淡々とした記述になってしまうのだが、これは社会に生きる場所を与えられていなかったひとりの「障害者」の、その意味で生きながらの「死」を生きることを強いられていた者の、破壊・浄化・再生(🄫金満里)のすさまじい物語なのだ。


「青い芝」の運動に身を投じ、家を出て自立することで、はじめて19歳にして、「生きることのはじまり」の地点に立つことができたのだ、世にはじめて産まれ出たのだという歓びを味わった。

その自立生活は「野垂れ死にの精神」のうえにあるのだという凄まじい覚悟があった。

しかし実質的には健常者によって、その論理によって支えられていた「青い芝」を離れることによって、組織の論理から金満里の論理・言葉へと向かう、さらなる険しくも厳しい自立の道に立った。


「青い芝」との決別によって、「青い芝」の<野垂れ死にの精神>を真に生きるということ。
(安全な場所で何を考え、何を問い、どんな人生を生きているのかという刃のような問いが読む者に突きつけられる。)


野垂れ死にの精神」
「きれいに管理され、隠され、生きることを許されているだけの生活から飛び出し、自分の命の発露に忠実に、安全なんて顧みず、白日の下に命をさらすこと。これが本当の学びであり、生きていることだ」


青い芝行動要領
一つ、我らは自らがCP者であることを自覚する。
一つ、我らは強烈な自己主張を行なう。
一つ、我らは健常者文明を否定する。
一つ、我らは愛と正義を否定する。
一つ、我らは問題解決の道を選ばない。


このきっぱりとした声は、「らい文学集団」の宣言文のようだ。

自立を試みる金満里に当初激しく反対した母が語った言葉
「おまえのやろうとしていることは、朝鮮が日本から独立をしたのと同じ意味がある」「おまえがおまえとして生きるために、親も捨てていこうとするのは、おまえの立場とすれば当然のことだ。しかし、親がそれを止めたいというのも、また当然のことだ」「生きていくのはおまえ自身だから、結局はおまえの思うようにするしかないのだ」


植民地支配を骨身で知る母の言葉の深さ……。
そして、この言葉で外へと送り出された娘は、自立第一夜を「いのちの初夜」という。


組織解体―「私たち」という複数形から「私」という一人称へ  
「自分がそれまでいかに運動用語でいう“まだ解放されていない障害者総体”の代弁者の言葉しか持っていなかったか」「運動がなければ、組織がなければ、それほどまでに自分が無に帰する存在であったとは」
「普通はこういうものだ、まっとうな人ならそうする――では最初から「普通」ではない障害者はどうすればいいのか
その型そのものがすでに健常者文化なのではないか。あるべき姿をあらかじめ決めてしまうこと、それが制度となって個人を管理しつくす」「なんだかんだといっても、その制度に乗っかって、するすると摩擦なく生きていけるのは健常者の方だろう。とりわけ有利なのは、健常者の男だろう。」


障害者に主体性なんて本当にあるのか。
結局は健常者文化のほうが強かったということなのか。
障害者と健常者の共同性なんてしょせんあり得ないのか。
そして、健常者にも障害者にもある、「逃げ場としての子どもと家庭」への不信感。


ひとりぽつんと置かれた西表島・原生林での気づき

在日朝鮮人であるということ。日本と朝鮮、CP者と健常者、どちらからも距離を持たざるを得ない自分。<間性>/境界上に生きる者としての意識。
それが金満里を沖縄へと向かわせた。


「まわりはうっそうとしたジャングル。ふだんでも一人になることはめったにない。それが、いきなり大自然である。こういう経験もめったにできないだろうと、負け惜しみ半分、恐さ半分で、まわりの景色を楽しむことにした。すると目の前の大木に、アリがたくさん這い上がっているのが目についた。するといろんなものが、目に飛び込んできだした。それをボーっと眺めていると、ふと私の頭をよぎる思いがあった。
 それは、アリはアリでこれが世界だと思っている。大木は大木でこれが世界だと思っている。それぞれに、それぞれが世界だと思う、悠然とした営みがあるんだ――ということだった。それは、大木の世界にアリが含まれる、といった大小の関係ではなく、それぞれ独自の世界が、互いとは関係なく互いと絡み合って存在している。という宇宙観のようなものが閃いた瞬間だった。
 私にとって、この閃きは大きかった。それまでとは見えるものが大きく変わり、すべてが宇宙に生かされた存在なんだ、という喜びが充満してくるようだった。すべてがそのままの存在として、すべてと楽に共存している心やすらかな状態を初めて味わった。(中略)私にとってこのときの沖縄は、夢によって癒され、自然と宇宙との繋がりまで感じさせてくれたものとなった。そしてこれは、私が今、「態変」の芝居の中で表現しようとしている、破壊・浄化・再生という宇宙観との初めての出会いでもあった。」