<映画を観た直後に友人に送った、ちょっと興奮気味の手紙>
CU-BOP、本当に面白かった!
ちょうど、ほんの数日前に、いわゆるK-POPと韓国の伝統芸能(放浪芸)の歌と語りの違いという話を韓国のパンソリの唱者とやっていて、
どんなにK-POPがかっこよくパンソリを取り入れても、パンソリのリズムはK-POPの中では殺されて、単純な2拍子に変換されてしまう、ということを話したばかりだったんです。
単純化されたパンソリ。↓ この音です。
その一方で、ジャズとの共演では見事にパンソリはその固有のリズムで歌い語る。
サムルノリという韓国独特のパーカッションのリズムとジャズが見事に響き合う。
人間の揺らぎも含んだ身体の律動、伸び縮みする呼吸のリズムで繰りだされる5拍子とか、12拍子とか、そんなリズムがジャズとなら見事に生きる。もっと尖った響きに生まれ変わる。
(たとえば、この音)
何が言いたいのかというと、韓国の5拍子も12拍子も韓国の風土が育んだ命のリズムであるわけなのですが、そのリズムのままセッションができるのはジャズだけなのだということ。
そのことと、映像に刻み込まれたCU-BOPの空気の震え、つまり、キューバに生きるアフリカ黒人の末裔たちの命のリズムと、アメリカで生まれたアフリカ黒人の末裔たちの命のリズムの賜物であるCU-BOPが、なんだか私のなかで重なり合って、響き合って、いきなり腑に落ちて、「ああ、この島(キューバ)にはまだ命のリズムが脈打っている」と、ひとり感動してしまったんですね。
(なぜか「ブエナビスタ」ではさほど感動しなかったんですけどね。というか、感動の方向性が違っていたような気がする)
奴隷たちは支配者から太鼓を取り上げられた、と確か映画の中で言っていたように思います。
たとえ、太鼓は取り上げられても、踊るカラダ、歌うカラダがあるかぎり、音楽は自由へと向かって疾走する命の水脈となりましょう。
資本に向かって疾走する音楽なんぞ、クソくらえ! です。
歌の神様が人間の一人一人に宿っている(ナミイおばあの教え)ことを忘れていないカラダ(=命)は、生きているかぎりは歌い踊るしかないでしょう。
そのことを、いまいちど、CU-BOPの響きでつくづく思い知って、
それで慌ててキューバ行きの航空券を調べたりして、
ああ、キューバに行きたーい!
などと叫びながら、映像の中の彼らの演奏を聞きつづけていたのでした。