序
<詩の始まり> 詩人ジェローム・ロゼンバーグ
私がトレブリンカにおいてはじめて耳に聞こえてきた詩のいくつかは私がなんのために詩を書くのかという問いに対するもっとも明快なメッセージだった。アウシュヴィッツ後に詩を書くことが可能か可能でないか、そうするべきかべきでないというアドルノたちの問いに対しての答えがそこにある。(中略)詩の起源とは何か。何もかもご破算にしたいという気持ちがないわけではないけれど、他者の声を見究め、他者が残したまま泥に塗れている詩の破片を見究めること、それが詩の始まりなのだ。
「ホロコースト」を素材にして書く筆者たちの書記行為は「(今は亡き人びとの)フルブンが私を通して語ること」に身をまかせることを意味し、「他者が残したまま泥に塗れている詩の破片を見究める」というところに力点を置く考古学的な作業であるということだ。そしてそうした表現者の営みは、殺戮場としか名づけえぬ場所からの「よびかけ」に応じる営みでもある。
※フルブン イディッシュ語で「災厄」の意
第1章 歌だけは無事生き存らえて
<歌> ポーランドのロマン派詩人 アダム・ミツキェーヴィチ
炎の歯は 歴史の絵巻物を嚙み砕きもしましょう/宝物ならば 武器を佩びた侵略者のの略奪を受けたりもしましょう/歌だけは無事生き存らえて 人々の群の間を駆けめぐるのです
その歌が問題。
『ゲットーおよび収容所歌曲集』(1948)をめぐって。
ポーランドでの出版は断念され、ニューヨークで出版。
「そもそも歌や語りの伝承とは、名もなき民の「遺言」の継承でなくてなんだったろうか」西成彦
「はたして極限状態での人間の行動を、どこまでも「抵抗」の範疇でとらえるとして、それにどのような意味があるのだろうか」西成彦
⇑この言葉は、収容所内の「灰色の領域」を意識して発せられたもの。
灰色の領域=「国家社会主義のような地獄の体制は、恐ろしいほどの腐敗の力を及ぼすのであり、それから身を守るのは難しい。それは犠牲者を堕落させ、体制に同化させる。なぜなら大小の共犯意識が必要だからだ」(プリーモ・レーヴィ)
音楽もまた「灰色の領域」をささえる要素の一つでありえたのである。
一方、戦後ドイツでは、「フォークソング=反戦歌」としての「イディッシュ歌謡」が「発見」される。 たとえば「ドナドナ」のような。
しかし、「ドナドナ」が譜面を持つイディッシュ歌謡だとすれば、収容所や難民キャンプで聞きおぼえた歌をノートに取ったり、暗記して、文字どおり「生き存らえさせた」人々がいた。譜面も著作権もない歌う者それぞれのヴァージョンのあるホロコースト歌謡を。(これはとても重要なこと)
ホロコースト歌謡の中には、ソ連様式(軍歌)、伝統的ユダヤ音楽、タンゴがある。
(これも当然のことでしょう。その当時、多くの人が耳にして馴染んでいたメロディが、ホロコースト歌謡の旋律になることは)
ポーランド歌謡がそのままホロコースト歌謡として歌われることもある。
ソ連軍の軍歌が「断じて言うな」という替え歌になってゲットー戦士の士気を高めるのに貢献したように、ポーランドのはやり歌がへウムノ収容所の周囲に生きている人びと(そこにはドイツ人兵士やドイツ人の地域住民も含まれた)、死んでいこうとしている人びとの「郷愁」に訴えかけた。音楽はさまざまな分断線をこえて人と人とを
つなぎあわせるのだ。
とはいえ、ポーランドにおけるユダヤ人の記憶に関する「歴史修正主義」は根強い。
戦時中、ユダヤ人を救ったというような行為がけっしてポーランドでは美談にならないこと、むしろ疎まれるという事実がある。(これも重要
第2章 彼女たちに無用の苦しみを与えてはならない
<ホロコーストを言葉にすることをめぐって> 詩人チェスワフ・ミウォシュ
調子のよい文句をしゃべるよりは、溢れる感情で吃ることがときにはよいこともある。しゃべりすぎるかもしれないようなときに、われわれを押しとどめる内なる声は懸命なのだ。
戦争が終わってしまえば、女の言葉を信じたり、レイプされた女性の特殊な運命を重視したりすることには、もはや何の政治的必要性もなくなってしまった。(ブラウンミュラー『レイプ』1975)
(のちにフェイクと判明した、ナチスが学校を売春宿に変えようとしていると聞いて集団自殺したポーランド、クラクフのヤコブの家女学院の93人の生徒の物語が)これまで人びとの心をとらえてきたのは、男の残虐行為ではなく、純潔のまま美しく死んでいった処女殉教者のほうだった。(同上)
「女性として「ホロコースト」を生きのびるということは、このような男たちの不条理な葛藤、自家撞着と気まぐれの前にひとりひとりが「おとり」として差し出され、「殺害」されるか「自決」に向かうかでないかぎりは「レイプ」を受けたり、「性的奉仕」を強要されたり、どう転んでも「屈辱的な過去」を背負って汚名とともにしか生きのびてはいかれなくなっていくということなのである。」西成彦
<ホロコースト・サバイバーを襲う精神的抑圧>
★純潔の死という神話の暴力……
★同胞を見殺しにした罪意識、わが子を手放したことへの罪意識
「「ホロコースト」が戦後ユダヤ人に課したのは、「戦争の犠牲者」であるはずの「サバイバー」にさえ猜疑心や嫌悪感が向かっていってしまうという社会の構造を、どう修復するかという難題にまっこうから立ち向かうことだった。」西成彦
どんな男もそうした苦境にある敬虔なユダヤ人女性を非難などしてはならない。彼女たちの受難は報われるべきものだと声を大にするのがわれわれの務めである。彼女たちに無用の苦しみをいささかでも与えてはならない。(ハリー・ゲルシュ『ユダヤ人の聖典』より ラビの言葉)
どうしてキリスト教徒の世界にユダヤ人の泥棒や、詐欺師、ぽん引き、売春婦について教えなくてはならないのか、みな殉教者として死んでしまったのに。その代わりに、どうして正しいユダヤ人について書かないのか(中略)時代が要求しているのは――と手紙の書き手たちは論じた――ユダヤ人が善人と聖者のみを強調することである。(I・B ・シンガー『さまよえる魂たち』より
※この章で西がホロコースト文学に託して語ろうとしているのは、ホロコーストサバイバーの中でも、共同体の抑圧によって口を塞がれている者たち、声を封じられている者たちがいるのだということ、その者たちの声を聞き取ることにこそ、ホロコースト文学、ひいては文学の意味を見いだしているのだということ。
善人、聖人でもなく、殉教者ということではない、そんな「正しき者」たちの範疇には収まらない、すき間に落ち込んだ者たちの存在(実はそのような者たちこそが大多数のはず)を直視し、彼らの声を聞き取ること。それは大きな力に翻弄される人間存在そのものを直視することになるはず。(基本的にこのような眼差し、アプローチで西のホロコースト文学をめぐる論議はつづいてゆく)