『わたしもじだいのいちぶです』 メモ

「彼女たちの日本語は、文字からではなく、耳に入ってくる音声で習得されたもの」

「教育を介さず生活の必要に駆られて学んだ言語」

彼女たちの日本語は、「国民国家の規範の外にある」「正しく」ない日本語。

「その<余白>は、変幻自在に<本文>を侵食し書き換えていく可能性を持っている」

「正しい」日本語を相対化し、日本語のありかたを広げていくような可能性。

 

 

……わたしわじぶんのなまえもわからなかったけとしきじがくにかよてじゅそもなまえもかけるようになてうれしい83さいになてえんそくとかあそびにいくのかとてもたのしみてすとこかてあたらこえをかけてねいそけんめいべんきょうしてえらくなれこのばさんはちいさいこそべんきょてまなかたかあたたちはげきていそけんめいやれ 

                   (桜本のあるハルモ二の作文)

 

※これは、石垣島のナミイおばあの唄本を想い出させるな……。

[ナミイおばあ自筆の唄本]

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※9歳のとき(1935年)に朝鮮から京都の兄夫婦の元に子守のために渡ってきた。

小さいとき、大みそかの夜に母からつくってもらったチマチョゴリをそばにおいて寝ました。うれしくてうれしくてなかなかねむれませんでした。それは、ふだんはきられないふくだったからでした。お正月にはすてきなチマチョゴリをきてかみにりぼんをゆわえることがうれしかったです。そのりぼんとゆうのは、はばは10センチぐらいのあかいいろをしていてとってもすてきでした。かみにゆわえてながくたらすのがうれしかったです。それでお正月をむかえました。(「チマチョゴリの思いで」呉琴祚)

 

 

※ これは歌になっているよ、歌いながら書いているよ。

春からてわがんにいってあさはせんたくをしてよるはおふろにはいるんです。

てわがんとゆうのは蔚山市内をながれる川です。

ふゆはせんたくをします。川にこおりがはってばんめいでわってからあらいます。水が冷たくていきをはきながらあらうのはたいへんでした。

すなをほってかいをとりました。とったかいをスープに入れんるんです。とってもおいしいです。

てわがんの水はとてもきれいです。とうめいです。かおも見えるくらいです。

五十年いってないからいまもきれいかわからないんです。(「てわがんの春」文叙和) 

 

 

※口をつぐむ。沈黙の始まるところ。語られるべきことの空白を指し示す言葉。 

終戦後沼津にくらしたときたべものはあんまりくろうはしなかった。ふつうに生活するにははいきゅうもあったし、ゆうれいじんこうもあったから、まあなんとか生きてきました。

でもお金がなくっちゃ困るからどぶろくつくることを考えた。それからきかいをつくってもらってしょうちゅうにしてうりました。駅前のやたいや自てん車にのせて売りにいきました。それであの時のことはもういいです。(「沼津時代のこと」 金文善) 

 

※うまれかわってもオンマのこどもにうまれたい

カルタ中にオンマの思い出がたくさんあります。

私はオンマにたいしてつよい思いがあります。

私は「なんにもできなくてもおよめにいけるかな。キムチもできないのに」とゆったら「オンマをよんだらはかから出てつくってあげる」とゆってくれました。 (「カルタとおんま」黄徳子) 

 

 

 

李良枝を読むことはつらい 

以下、気になるところの抜粋  備忘のため。

 

『刻』より。

 

「在日って因果ね。韓国なんて何だ、なんて思う時もあるくせに、気になってしかたないんだもの」

「そうね」

私は素直に頷いた。言葉に初めて、チュンジャの身体、チュンジャの体臭を感じていた。彼女にも、無数の私、無数の一人称が絡みついているにちがいない。

 

 

「隠れて生きよ」

 

 

化粧が終わった。の一文から『刻』ははじまり、「私は、化粧を始めた」の一文で終わる。その間、時計の音が時を刻みつづける、確かなものは何一つない。

 

 

山尾三省『野の道』と宮沢賢治をめぐる会のあとに。

5月12日 野生会議99 つながるゼミナール

「山伏の目で読んで語る宮沢賢治」@西荻窪・忘日舎のゲストに来てくださった編集者アサノタカオさんとのfacebook上でのやりとりが、とても大切なことに思われて、このブログの方にそれを記録しておく。

 

<アサノさんの投稿>

週末の夜、東京・西荻窪の書店である忘日舎で姜信子さん、渡部八太夫さんと山尾三省宮沢賢治について語る機会をいただいた。野性会議99の「つながるゼミナール——山伏の目で読んで語る宮沢賢治」にて。なかなか言葉では表現し難いスリリングな時間にたちあうことができて、いまなお興奮は冷めやらない。

屋久島に暮らした詩人・山尾三省宮沢賢治について論じたエッセイ集『野の道』の冒頭に、印象的な一節がある。「野の道を歩くということは、野の道を歩くという憧れや幻想が消えてしまって、その後にくる淋しさや苦さをともになおも歩きつづけることなのだと思う」

またあるところで、三省はこんな詩も書いている。

 

ひとりの男が
まことの歌を胸に探り
この世の究極の山へ登りに入った

それがまことの歌なのか
まことらしき歌なのか
明確でないところに この登山の困難があった
——「歌のまこと」

 

山尾三省によれば「野の道」とは、単なる自然回帰の道ではない。それは「矛盾の道」のことだ。憧れと淋しさのあいだ、まことの歌とまことらしき歌で揺れ動くおのれの「ゆらぎの道」のことだ。三省は生涯、農民と詩人のはざまで引き裂かれた宮沢賢治が「修羅」と呼んだ、自我という苦しみゆえに生まれる必然の矛盾を正視し続けた詩人だった。

「わかりやすさ」が、我が物顔でのさばる時代。個人も社会もこの「矛盾の道」に踏みとどまり、わからないことを考え続ける気力も体力も失いつつある。そして右にならえのその右に、くたびれた感情が数珠つなぎに繋がれて押し流されていく。私たちは私たちの「矛盾の道」である「野の道」を探さなければならない。そこで、心という内なる自然に分け入る「芸能」の出番だ。

 

渡部八太夫さんの語りと三味線による実演、賢治童話「マグノリアの木」の山伏祭文が圧倒的だった(「マグノリアの木」は青空文庫で読むことができます)。歌曲が勢いに乗れば乗るほど、私の心に映ずるイメージの流れはゆっくり、ゆっくりとスローモーションになってゆく。そして物語の景色の光や色、汗や霧のふるえる粒まではっきり見えてきて驚いた。

 

「諒安は自分のからだから少しの汗あせの匂においが細い糸のようになって霧の中へ騰のぼって行くのを思いました。その汗という考から一疋ぴきの立派りっぱな黒い馬がひらっと躍おどり出して霧の中へ消きえて行きました。霧が俄にわかにゆれました。」

 

何度もなんども読んだはずの「マグノリアの木」。しかし文字を追うだけでは読み飛ばしていた物語の細部が尋常ではない生生しさで迫ってくる。

歌だったんだな、と思った。賢治の心象風景には音が鳴り響いていて、歌うことで文字の奥から音を解放しなければこのリアリティを深々と体験することはできない。歌曲に耳をすませながら、私は陶然と、目の前で金色の琥珀の分子が漂うのをじっと眺めていた。

 

さて、「マグノリアの木」の山伏祭文にすっかりのぼせあがって、イベントの最後に、編集を担当した山尾三省のエッセイ集の新版『野の道』のことや新刊の詩文集『五月の風』のことを宣伝するのを完全に忘れていた。きっと三省の魂と共に、三省が敬愛した謙虚で心優しい「貧乏神」もあの場に降臨したのだろう。そう思うことにする。

 

youtu.be

 

<姜信子のコメント>

浅野さん、12日はありがとうございました。
山尾三省の「矛盾の道」、「ゆらぎの道」である『野の道」に触れることは、いま同じく一匹の修羅となって、誰かの意志で動かされてゆく「この世」という囲いの外に踏み出したい私には、よき始まりの声なのでした。

一方で、日曜の会でもちらりと話しましたが、70年代的なコミューンだとか、法華経阿弥陀経大日経やヴァガバッドギーダやラーマ・クリシュナやさまざまな宗教的な回路を経由してしか、その「野の道」にはたどりつけないのか、という懐疑も私にはあるのです。

宗教それ自体は野生を見失った者たちにとっての、「方便」に過ぎないのではないか、
なのに、「方便」と「目的」が揺らいですり替わる瞬間があるのではないか、と。

宗教と思想を截然と分けることは難しいのだろうと思いつつも、
目に見える形としての共同体ではなく、わかりやすい信仰のようなものとしての宗教ではなく、
野をゆく、野に在るという精神性でつながってゆく「共同性」という意味でのコミュニズムを私は思い、
また、宗教性とはもちろん無縁ではありえないものの、野に生きることの証のようなものとしての芸能を、野に生きることの核心に置こうと近頃は思っています。

そして、その芸能の核には、声がある。
無数の声の場を立ち上げてゆくことこそが、アニミズムでありアナキズムなのだと考えているわけです。

というようなことを思い描きつつ、山尾三省を読み、賢治を読む私がおります。(笑)

 

 追伸:『野の道』とあわせて、『無謀なる者たちの共同体』(李珍景 インパクト出版会)を読むと、非常に鼓舞されます。

 

<アサノさんの応答>

「声」の探求者としての姜さんのお話を反芻しながら、考え続けています。

宗教であれ政治であれ、力に束ねられる共同体ではなく、一匹野良猫的な単独性の連帯による共同性を目指したいところです。70年代・80年代の三省たちの言論は「野の道」をあまりにもまっすぐなものとして想像し過ぎたところがある。世界や神々や明るいものに正しく繋がる道として。そうしなければならなかった時代や個人の必然もあったと思うのですが、実はそこには多くの曲がり角があり、その先に続く薄暗い曲がり道があったのではないか。であれば、のちに続く僕は三省の背中を理想のものとしてただ追いかけるのではなく、ありえたかもしれない「野の曲がり道」の方へ逸れて自分なりにさまよってみたい。

たとえば移民や越境者、あるいは事によると近代から引きこもる難民や亡命者として、三省のことばを読み解くこともできるのではないか。旅を生きるさびしさから浮上する三省的な越境のヴィジョンは、人間どもの口当たりの良いお題目としての多文化主義を、死者や自然を含めた有象無象が呼びかわす多モノ主義に鍛え直す鍵になるような気がするのです。しかも、大げさな宗教や文学によらない、世俗的な日々の暮らしの真っ只中にあって。

ここが僕のはじまりになりそうです。三省、賢治、済州島の海女たちの声。曲がり角を曲がりに曲がって、いったいどこへ連れて行かれるのか…。

 

<姜信子の応答>

「野の曲がり道」。とても大事なことのように思います。

たとえば、三省の詩を読む。ここは立ち止まらねばいけないところなのに、その先に手探りの闇があるはずなのに、何かを振り切るようにして、むしろより一層の力を込めてまっすぐに足を前に踏み出す瞬間がある。

たとえば「風」。その最後の三行。それがその瞬間のように私には感じられるのです。

そういう瞬間を感じることは、とても切ない。

ふっと気を抜くと、自分もまた、ある瞬間に、ぐっとまっすぐに足を踏み出してしまうような気もします。

どれだけこらえて立ち止まれるか、逸れて曲がってゆけるか、

先行者に抱いた違和感は、先行者からの大切な学びでもあります。

その出発点を共有しつつ、私も曲がって曲がって、さて、どこに行きつくことやら……

 

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「なもあみだんぶーさんせうだゆう外伝」

2019年5月11日  東京自由大学 「異界の声。常世の歌」第二回

「流浪のうたびと、 ~アフリカの吟遊詩人、さまよい安寿」

 

 

<話の前置き>

 

説経節「山椒太夫」より、弟厨子王の行方の自白を迫られた安寿の拷問死の場面

 

十二格(十二段)の登梯(はしご)にからみつけて、湯責め水責めにて問う。それにもさらに落ちざれば(白状しないので)、三つ目錐を取り出だし、膝の皿を、からりからりと揉うで問う。

(中略)

邪慳なる三郎が、天井よりも、からこの炭を取り出だし、大庭にずっぱと移し、大団扇をもって、あおぎ立て、いたわしや姫君の、髻(たぶさ)を取って、

あなたへ引いては「熱くば落ちよ、落ちよ落ちよ」と責めければ、責め手は強し身は弱し、なにかはもってこらうべきと、正月十六日日ごろ四つの終りと申すには、十六歳を一期となされ、姉をばそこにて責め殺す。

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説経「さんせう太夫」安寿拷問死の場面

 


森鴎外山椒大夫』(1914
年)より、安寿入水の場面

 

安寿は泉の畔(ほとり)に立って、並木の松に隠れてはまた現われる後ろ影を

小さくなるまで見送った。そして日はようやく午(ひる)に近づくのに、山に登ろうともしない。幸いにきょうはこの方角の山で木を樵る人がないと見えて、

坂道に立って時を過す安寿を見とがめるものもなかった。

 のちに同胞を捜しに出た、山椒大夫一家の討手が、この坂の下の沼の端で、

小さい藁履(わらぐつ)を一足拾った。それは安寿の履であった。

 

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森鴎外原作 溝口健二監督「山椒大夫」(1954) 安寿入水の場面

 

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~川瀬慈さんの映像への応答として~ 

 

なもあみだんぶーさんせうだゆう外伝

『記憶喪失の安寿と靴の話』

      (語り:姜信子  絵:屋敷妙子  音楽:渡部八太夫

 

 

誰もいない道端に一足の靴がきれいに揃えて置かれていたんです。

誰の靴なのか、わかりません。そこに靴があるだけで心は穏やかではありません。

いったいいつから私は「安寿」であったのか、まったく記憶にありません。

物心ついたときには、確かに、すでに、けなげな安寿でありました。

尽くす歓びに溢れた人生を生きてきました。

冷静に考えてみれば、ふんだりけったりの人生でありました。

 

最初にいきなり父親が失踪して、

世間知らずの母親は、親切を装って言い寄る男に魂を奪われて、

身ぐるみはがれて、遠い国に売り飛ばされて、

そのうえ、私も弟もまだ未成年だというのに、どこかの無情な金持ちにお金で買われて、

あまりに生産性が低すぎる、まったく使えないガキだと、ぼこぼこ殴られて暮らしました。

 

そうして地べたを這いずって生きて、学んだこと、二つ。

 

人間もまた、お金で売り買いされる「商品」です。人の命は「商品」です。

森羅万象、すべてが「商品」です。

そして、人間に与えられている選択肢は、つねに二つに一つです。

 

お金ですべてを売り買いするご主人様になるか、

お金で売り買いされる「商品」になるか。

 

せめて弟は、ご主人様と呼ばれる側の人間になってほしいと願いました。

だから、ご主人様の眼を盗んで、弟を、逃がしたんです、「商品」の世界から。

 

たとえ女こどもであっても、「商品」の分際で、絶対権力のご主人様に逆らってそんな不埒な真似をすれば、きっと殺されてしまいます、

だから、斬ったり刺されたり貫かれたり焼かれたりする前に、美しい姿のままで死んでしまうことにしました。

 

映画のセットのように美しい夕暮れの湖に身を投げました、

ひそかに、静かに、声もあげずに沈んでいきました、

自分で思い返してみても、これは絵になる情景です、

実にいい、素晴らしく美しい、

後世にまで残る名場面です。

 

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世の人びとも、なんて潔い身の処し方だ、あの娘は大和撫子の鑑だとほめたたえて、

生きて辱めを受けるなかれ、死んでこそ花も咲くのだ実もなるのだ、と、

私の死から教訓を引き出して、

そうして気がつけば、自分の意志を持つことで権力に抗ったはずのこの私が、

強欲なご主人様たちが掲げる修身道徳の模範的なモデルになっているという……

 

  我が臣民克く忠に克く孝に、億兆心を一にして世々厥の美を済せるは、

  此れ我が国体の精華にして、教育の淵源亦実に此に存す。

  爾臣民父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、

 

命を捨ててまでしてご主人様から逃げたはずが、見事にからめとられている、

どこまでいっても、私の命は、ご主人様のものでしかない、

私は、そういう人生を、もう1000年以上も、くりかえし生きてきたようでありました。

  

でもね、それは錯覚、

錯覚でなければ刷り込み、

刷り込みでなければ洗脳、

ほんとはね、

誰かが私の記憶を盗んで、こっそり私の物語を書き換えている、 

 

こういうことの一切を、私は、いま、

誰もいない道端の、きれいに揃えて置かれた一足の靴を波立つ心で見つめながら、考えています。

 

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たとえば、あの日のこと。

世界がまるごと揺さぶられて、軋んで、亀裂が走って、

千年に一度の、大きな真っ黒な波が押し寄せてきて、

ご主人様がこの「世界/物語」の真ん中に据えつけたカラクリ機械の電源もすべて落ちた、あの日、

世界の亀裂の向う側の闇の底に封じられて、忘れられていた、たくさんの小さな声がざわめいた。

 

そのとき、私もざわめきました。

  

想い起こせば、

ほんとの私は、みずから湖に身を投げて、美しく死んだりしませんでした、

逆らった見せしめに、膝小僧をキリでカラカラぐりぐり刺されて、

火責め水責めぶりぶり拷問の末にずたぼろになってこときれたはずでした、

 

いったい私はどんなふうに生きて、死んでいったのか、

その物語を、この千年間、無数の旅人たちが、滔々と流れる水のようにこの世をめぐって、くりかえしくりかえし語りついだはずでした、

私は、いろいろな土地の、いろいろな場で、いろいろな声で語られて、

そのたびに命を吹き込まれて、よみがえりました。

吹き込まれた命は、私の物語を語る人びとの命でもありました、私の物語を聞く人びとの命でもありました。

 

それは「商品」であることに抗う者たちの「命」でありました。

 

抗う無数の命がありました、抗う無数の安寿がおりました、抗う無数の声がありました、

みずからの声で物語ること、命を寄せ合って物語る場を開くこと、

そうして、みずからの命を、誰のものでもない自分の時間の流れの中で生きること、

それこそが抗いでした、

 

さて、私は、誰もいない道端に置かれた一足の靴を見つめています。

かつて、ご主人様の強欲な物語の筋書きどおりに、靴を脱いで、きれいに揃えて、

あきらめの湖に身を投げた自分がいたことをありありと想い出しています。

 

この世には、主をなくした無数の靴がある。靴をなくした無数の安寿がいる。

あなたも、きっとそのひとりでしょう?

 

さあ、その靴をはいて、

すべてのご主人様にさようなら、

不埒な安寿は旅に出ます。

 

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※「なもあみだんぶーさんせうだゆう」本編は、『現代説経集』(ぷねうま舎)に収められています。

 

 

野の道/ 宮沢賢治は、法華経を唱えつつ死への道を歩いている。 メモ

野の人としての、法華経信奉者としての賢治。

 

死を意識したときに、ようやくたどりつく「常不軽菩薩品」の境地

あるひは瓦石さてはまた

刀杖もって追れども

見よその四衆に具はれる

仏性なべて拝をなす

 

菩薩四つの衆を礼すれば

衆はいかりて罵るや

この無智の比丘いづちより

来りてわれを礼するや

 

我にもあらず衆ならず

法界にこそ立ちまして

たゞ法界ぞ法界を

礼すと拝をなし給ふ

 

窮すれば通ず

窮すれば通ず

さりながら

たのむはこゝろ

まことなりけり

こゝろのみにぞ

さちもこそあれ

こゝろひとつぞ頼みなりけり

 

ー後略ー

 

 

死後残された手帳に、「経埋ムベキ山」として記された32の山々の名。

まるで「六部」のようだ。法華経を山に埋めて歩くことを願っていたんだ。

 

六十六部の略で、本来は全国66か所の霊場に一部ずつ納経するために書写された66部の『法華経(ほけきょう)』のことをいったが、のちに、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚(あんぎゃ)僧のことをさすようになった。別称、回国行者ともいった。わが国独特のもので、その始まりは聖武(しょうむ)天皇(在位724~749)のときとも、最澄(さいちょう)(766―822)、あるいは鎌倉時代源頼朝(よりとも)北条時政(ときまさ)のときともいい、さだかではない。おそらく鎌倉末期に始まったもので、室町時代を経て、江戸時代にとくに流行し、僧ばかりでなく俗人もこれを行うようになった。男女とも鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、甲掛(こうがけ)、股引(ももひき)をつけ、背に仏像を入れた厨子(ずし)を背負い、鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した。[藤井教公]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

 

 

そして、賢治は「虔十」であることを夢見る。

虔十とは、私達すべての中に住んでいた至福の別名である (山尾三省) 

 虔十の至福を失いつづける人間のひとりとして、

山尾三省は「野の道」をゆくことのリアリティを考える。

 

私が野の道と呼ぶものは、太陽を最大の価値とし、太陽の下、土の上で

全人類が隣人ごとに民族ごとに親しみ合い、交流し合って暮らす、小さな技術を持った新しい道のことである。 

 

私の希望は国家にはなく、私達の太陽の下、土の上の野の生活にある 

 

死者たちと共に生きるということ/野の道をゆくということ

山尾三省『野の道』は、この一文からはじまる。 

「私は、野の道を歩いてゆこうと心を決めて、今、この野の道を歩いている」

 

この「野の道」とは何なのか?

単純に自然の中で生きる、というような話ではないことは確かだ。

 

「野の道」は、賢治の「オホーツク挽歌」にもつづいているようである。

 

 

 

宮沢賢治「オホーツク挽歌」のうち、「青森挽歌」から抜粋 

 

こんなやみよののはらのなかをゆくときは

客車の窓はみんな水族館の窓になる

 

 あいつはこんなさびしい停車場を

たつたひとりで通っていつたらうか

どこへ行くともわからないその方向を

どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを

たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか

 

黄いろな花こ おらもとるべがな

たしかにとし子はあのあけがたは

まだこの世かいのゆめのなかにゐて

落葉の風につみかさねられた

野はらをひとりあるきながら

ほかのひとのことのやうにつぶやいてゐたのだ

 

 

すべてがあるがごとくにあり

かゞやくごとくにかがやくもの

おまへの武器やあらゆるものは

おまへにくらくおそろしく

まことはたのしくあかるいのだ

       みんなむかしからのきやうだいなのだから

       けつしてひとりをいのつてはいけない

 

     

 ナモサダルマプフンダリカサスートラ (南無妙法蓮華経

  これは、賢治のサガレンへの旅(=死者とともにある旅)の呪文。

 

わたくしの感じないちがつた空間に

いままでここにあつた現象がうつる

それはあんまりさびしいことだ

 (そのさびしいものを死といふのだ)

 

「野の道を歩くということは、野の道を歩くという憧れや幻想が消えてしまって、その後にくる淋しさや苦さとともになおも歩きつづけることなのだと思う」

そして、これは、賢治とともに野の道をゆく山尾三省の声。

 

「祀られざるも神には神の身土がある」

これは山尾三省が耳傾ける賢治の声。

 

「野の道とは、一体感を尋ねる道であると私は思っている。一体感とは、包むことと包まれることの自我が消え去り、静かな喜びだけが実在する場の感覚のことである」

 

一体であることを求めつつ、一体ならぬ「私/個我」を滅することのできぬ修羅もまた、そこにいる。

 

小野十三郎  メモ

「犬」

 

犬が口を開いて死んでいる。

その歯の白くきれいなこと。

(「抒情詩集」より)

 

 

革命は、人間の耳、聴覚に対しては最もおそくやってくるか、或は永久にやってこない。それに反して、旧い勢力や古い秩序の立ち直りときたら、これはおどろくべき早さで、人間の聴覚からはじまる。

(「火呑む欅」あとがきより)

 

ざわざわと雨になった。

だれかが言ってゐる。

この雨でまた山には茸が出るだろう。

日本といふ国はなるほど悲しい国だ。

(「抒情詩集」より)

 

 

「拒絶の木」

 

立ちどまって

そんなにわたしを見ないで。

かんけいありません、あなたの歌にわたしは。

あなたに見つめられている間は

水も上ってこないんです。

そんな眼で

わたしを下から上まで見ないでほしい。

ゆれるわたしの重量の中にはいってこないでください。

未来なんてものでははわたしはないんですから。

気持のよい五月の陽ざし。

ひとりにしてほしい。

おれの前に

立つな!