パレード

雨の銀座でブラスバンドのパレード。高校生ブラスバンドやらなにやら20チームほど。ブラスバンドはどうもいけない。上手い下手関係なく、あの足並みそろえた音の響きがいけない。私は泣いたことがない、などとうそぶきながら、ブラスバンドの音にうっかり聴き入る私は、油断すると涙ぐんでいたりする。これは、心が揺さぶられてとか、感動してとかいうことではなく、単純に私の中の何かが反応している。何かのスイッチが入る。誰かに勝手に押されたら困るスイッチ、危ないスイッチ。空気を揺るがすブラスバンドの音に取り囲まれて、おいでおいでされたなら、私はきっとブラスバンドとともに戦場にだってどこにだって、知らず知らず、涙ぐみながら、行っちゃうね。

ハンセン病回復者である上野正子さんの自伝を再読する。上野さんはハンセン病国家賠償訴訟の第一次原告のひとりだった人。国家が定めた理不尽な法に苦しめられてきた人々が、国家にその非を認めさせるべく声を上げたとき、同じく理不尽に苦しんできたはずの人々うちから、国家に対して声をあげた者たちへの非難の声があがる。クリスチャンである上野さんには、こんな声が届いた。「感謝の足りないクリスチャンよ、私たちにまで迷惑をかけないようにしてくださいね。国に立ち向かうことを恥ずかしいとは思わないのですか」

「感謝」ってなんなんだ? 囲いの中に押し込んで、すべてを奪って、自力では生きられなくしたうえで、囲いの中で養い、生かすということをした国家に向けて、どう感謝すればいいんだろう? 自分からすべてを奪った国家に立ち向かうことを恥ずかしいと思うとしたら、いったい「恥」ってなんなのだろう? 「法」ってなんなんだ?  

上野さんの本を読んでいると、こんな問いがふつふつと湧いてくるのだけど、ブラスバンドのパレードで簡単に涙するような私は、囲いの中にずっと暮らしてたら、その中を支配する声や音に身をさらしてたら、それに狎れて、お門違いの感謝や、ポイントのずれた羞恥心を育んでいたかもしれないと思いもする。むしろ、まっとうな感覚を保ち続けることのほうが至難のわざであるような……。

自分の中の声を見失わず、人間として生きる権利を奪われ続けた悔しさを忘れず、自分の置かれた環境に狎れず、人間としてのまっとうな感覚を持ち続けた人に、いかにして「パレード」にさらわれずにすんだのかという話を聞いてみよう。上野さんには8日に鹿児島でお目にかかることになっている。