生きてあれば

こまこまとした雑用を片付けるうちに一日が終った。翻訳手付かず。

島比呂志のエッセイ『生きてあれば』(ハンセン病文学全集4所収)を読む。
「わたしは、なんのために、ものを書こうとするのであろうか。十年近い歳月には、失明の不安におののいたこともあった。それでも、書くことを断念することはできなかった。二十代で文壇に登場する人たちのことを思うと、自分の非才も十分承知し、失望もしている。それでも、なお、わたしは書くことから解放されない。それはなんのために……。金がほしいからか、それもあろう。名誉がほしいからか、それもあろう。でも、わたしに返って来るものは、およそ命を削って書いたものとは、比較にならぬ。時には、わずかの金を得てよい気になったり、選者からほめられて喜んだこともあった。けれども、それらが癩患者であるわたしを、どれだけ救いえたであろうか。
 わたしが求めているのは順子さん(注:旗順子さん。多摩全生園。その作品を読んだ大学生から熱烈な手紙を受け取った)のところに来たような、灼熱した人間の魂ではなかっただろうか。原爆症患者たちが「生きていてよかった」といったごとく、たとえ癩の現実がどんなに苦しくとも、わたしたちはその言葉を口にする日を夢に描きながら、生きて来たのではなかっただろうか。
 生きてさえいれば、いつかその日が来るかも知れないという、かすかな希望に、わたしたちの「生」は支えられているのである。わたしは、その日が来るのを待ち切れないものだから、毎日々々、出す宛てもない手紙を書いて来たのだ。それが私であり、私の作品だったのだ」


明日28日は大阪へ。詩人の金時鐘さんに会いに行く。