あれもこれも・・・

済州市内からバスに乗って、モスルポへ。ここを起点にチェジュオルレ(オルレは済州島方言で小道)の第10番コースをゆく。チェジュオルレは、散策コースとして設定されている。道のところどころ、木々にオルレの目印としてつけられている赤と青のリボンを辿ってゆけば、道に迷うこともない。
海岸通りから松岳山を越えていく10番コースには、広大な畑のそこかしこに、日本軍陣地跡。地下要塞跡、飛行場跡、かまぼこ型の練習機格納庫(まだ幾つもある)。山上には高射砲跡、海辺には震洋特攻基地跡…。さらに朝鮮戦争当時に「アカ」の疑いで予備検束されて、そのまま殺された西帰浦周辺の300名あまりの人々の慰霊碑もある。(この予備検束者虐殺の背景に、4・3の暗い影が落ちていることは言うまでもない)。
日本軍は本土決戦前の前哨戦の場所を、沖縄か、済州島か、というふうに考えていた。戦争初期はこの済州島の飛行場を中継地に、日本本土を飛び立った戦闘機が重慶の爆撃へと向かったのであり、戦争末期には済州島への米軍上陸に備えて関東軍の兵力の一部が投入された。そんな予備知識もなく、済州島の山が迫る海辺を歩けば、おのずと沖縄南部戦跡が重なり合ってくる。たまたま飛行場跡の脇で、日本軍陣地の由来を観光客に説明していた済州市内の高校の先生の話を聞いた。「米軍がこの島に上陸したならば、きっと私は今ここにいない」。日本軍によって要塞化されていた松岳山一帯の広大な土地は日本軍に接収されて以来、本来の所有者はその土地を取り戻すことはなく、今は韓国国防部から土地を借りて農業をしている。(取り上げられたのは、もちろん土地だけではないのであるが……)。

同行者が済州島のお墓の研究者。畑の真っ只中、石垣で囲まれた草ぼうぼうのなかに墓があることを、歩きながら教えてくれる。済州島に共同墓地が作られたのは植民地時代。それは支配者の意向。本来はぽつんぽつんと畑や野山に生きている人間たちの営みの場に入り混じって存在しているものなのだという。畑に来た人は、墓の石垣にもたれて昼寝もする。墓を怖がらない。そういうものなのだと、本来は。夏になると、墓石が見えないほどに草が生い茂るから、済州島では墓の草刈りは夏の重要な行事。単に草刈をするのではなく、『草刈」という行事がある。『お盆』という行事があるように。

虚墓(헛묘)にも行った。遺体のない者たちの墓。魂を神房が墓に込めた墓。墓碑銘には、4・3事件の犠牲になったこと、悲惨な、あるいは悲痛な死であったことが書かれている。そういうことが書けるようになったのは、金大中以降。ただ、そのような感情的な言葉を使った墓碑銘は4・3関係の墓碑銘くらいしかない。

いろいろと渦巻く思いを、ひとり市場を歩いて鎮めた。東門市場。魚のにおい。みかんの匂い。人の匂い。生きてる匂い。