とりあえず、よいお話は疑う。

遅ればせながら、『災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(レベッカ・ソルニット 亜紀書房)を読む。原題は『A PARADISE BUILT IN HELL』。

語られているのは、ざっくりとまとめれば、こんなこと。
現代社会に生きる私たちにとっては、今ここにあることそれ自体、現在の社会秩序それ自体が、災害なのであり、ここを脱するにはどうしたらよいのか? そのヒントは、大地震や9・11のようなテロやハリケーンといった文字通りの大災害に襲われた人々の団結と利他的行動と即時対応性にある。真のパラダイスへの扉は、災害という地獄のなかにある>

この本の中で語られる9・11のミューヨークやハリケーンカトリーナに襲われたニューオーリンズの現実(権力を持つ人々の災害の被害をさらに増す恥知らずで野蛮な振る舞いと、それに対抗するかのような自然発生的な利他的なコミュニティの出現といった現実をめぐる記述)は、知らなかったことばかり。メディアには出てこなかったことばかり。人間という存在について、知らなかったことばかり。でも、知らされれば、うんそうだよ、私もそう思うと、自分自身に照らしてみても納得のゆくことも多い。でもね……


本書の結論部分でソルニットが語っていることは以下の通り。

「災害の中の喜びは、もしそれが訪れるとするなら、はっきりした目的の存在や、生き延びることや、他人に対する奉仕への没頭や、個人に向けられた個人的な愛ではなく市民としての愛からやってくる。市民の愛――それは見知らぬ者同士の愛、自分の町に対する愛、大きな何かに帰属し、意味のある仕事をすることに対する愛だ。
 脱工業化した現代社会では、このような愛はたいてい冬眠中か、もしくは認められていない。それゆえに日常生活は災難なのだ。というのは、役割を与えられて行動することこそ、社会を、回復力を、コミュニティを、目的を、そして生きる力を築く愛だからだ。」


「災害時の相互扶助を長引かせるのは、そのもう一つの愛を言葉で表現し、いつくしむ能力である。言葉で描写できないものの喜びに浸ることはできても、それを育むことはできないからだ。」


「エリートは、現代の災害学者が確認したように、災害時にはパニックを起こすが、それは解き放たれた人間は野蛮で危険だという思い込みから来ているのだ。そう信じる人たちは、彼ら自身、自分の身や利益を守るためには凶暴な行動を取るに違いない。」
(ハリケーンカトリーナに襲われたニューオーリンズを見よ)

 

ニューオーリンズの町や他の同じような町にあるこういった不正や傷を治すには、毎日の災害を正していくしかない。その作業により得られる意義や愛の豊かさは、毎日の災害がわたしたちに与える褒美なのだ。喜びは重要で、しかも、それが最も期待のできない状況のもとで見つかるということは、それが長い間のわびしさや分裂をものともせず、脈々と生き続けてきた欲求であったことを証明
している。現行のシステムは欠乏と互いに対する恐怖の上に成り立っている。それはよりいっそうの欠乏と、恐れる対象を作り出してきた。だが、それは利他主義や相互扶助や団結により、そして恐怖ではなく愛や希望により動機づけられた組織や個人の行動により、毎日、緩和される。それは、いわば影の内閣のようなものだ。もし選出されてパワーを与えられたなら、もっと何かをする用意のあるもう一つのシステムだ。災害は、世の中がどんなふうに変われるか――あの希望の力強さ、気前の良さ、結束の固さ――を浮き彫りにする。相互扶助がもともとわたしたちの中にある主義であり、市民社会が舞台の袖で出番を待つ何かであることを教えてくれる。」


うん、確かにそうかもしれない。まあ、そうなんだろうなぁ。そうだといいねぇ、と呟きながらも、このまとめ方にはそこはかとなく違和感。市民としての愛とか、影の内閣とか、大きな何かとか、意味のある仕事とか、もう一つのシステムとか、主義とか、市民社会とか、バタくさくて、近代臭くて、何やら筋の通ったお話になっていくことへの、本能的違和感(?)。いや、へそ曲がり的反応、と言うべきかしら。

リンギスの『何も共有していない者たちの共同体』を再読してみようか……。