取るに足らない人々が語り始めるために…

デモクラシーって、何なんだ?

この問いに、ジャック・ランシエールが、『民主主義への憎悪』(インスクリプト)で明快に答える。

それは今や「行き過ぎた平等要求」の別名である、「行き過ぎた平等要求」が様々な社会的・政治的問題の原因となっている、それゆえにデモクラシーは憎悪されるべきものである、というフランスでの社会的風潮を前提としたうえで、ランシエールは言う。
「デモクラシーとは、そもそも自然的秩序に反して、何の資格ももたない民衆が権力を要求する実践過程そのものであり、その限りで社会的な不和を生み出すのは当然である」。

デモクラシーへの問いと、それに対するランシエールの主張は、訳者解説で松葉祥一氏が言うように、いま、日本で起きている「戦後民主主義」を憎悪する論調(古き良き秩序、たとえば家父長制の崩壊は行き過ぎた民主主義のせいだ、利己主義の横行による共同体意識の喪失は行き過ぎた民主主義のせいだ云々)を考えるうえで、きわめて有益だと思う。

「人間である以上、言葉を聞き、意見を表明できるにもかかわらず、言葉を聞くことも、意見を表明することもできないと想定されている人々がいる。デモクラシーとはこうした言葉を語らないはずの人々が語り始めることにほかならない」

言葉を語らないはずの人々。たとえば、子ども、女性、外国人を松葉氏は挙げる。つまり、いわゆる社会的弱者。共同体のなかで、そこにいるのに見えない聞こえない存在とされてきた人々。たとえば、旧植民地の民、ハンセン病回復者。あるいは、東北の被災者も今はこのうちに入るのだろうか。

ランシエールの言うデモクラシーとは、制度ではない。理念でもない。それは「語るはずのない民衆が語り出す」という出来事。今ここにある制度を他者に向けて開いてゆく実践の過程として、在る。その意味において、共同性を前提とする政治制度ではなく、共同性なき共同体を前提とする。

「デモクラシーとは、公共の議論から排除された民衆が発言を求めること、そのために政治制度の更新を求める実践そのものである」

デモクラシーとは、「可視性がなかったものに可視性を与え、それまで仕事をするだけでよいとされていた人々が共に話し、行動することができる者として自らを示す共通の場面を開く」こと。

ランシエールに深く共感する。ならば、私は、私たちは、いま、ここで、私たちが何をなすべきか?