違うけれど違わない父と娘の光景。

ヤン・ヨンヒ監督 ドキュメンタリー映画『ディア・ピョンヤン』をあらためてじっくりと観た。
冒頭の父と娘の会話。ここに済州島出身の父が背負ってきた南北分断のもとの生と、その父のもと日本で生まれ育った娘の生の、重なりつつずれゆくありようが凝縮されている。父は思想的に北朝鮮に共鳴し、総連系の模範的で情熱的な活動家として生きてきた。息子三人(監督の兄たち)を思想的な祖国北朝鮮へと旅立たせた。両親のもと、日本に独り残った末の妹は朝鮮学校に通い、やがて北朝鮮も訪問し、そして北朝鮮のありように違和感を抱くようになる。そんな家族の物語が、こんな冒頭の会話で幕を開ける。

<2004年正月の父との会話>
父「彼氏だけ作らないから、俺が腹が立つねん。どんなんでもええわ、おまえが好きな奴は」
娘「ほんと? アボジ、いまのビデオで撮ったで。もう証拠やで。絶対? ほんと? どんな人でも何も言うたらあかんで。よっしゃ―!」
父「うん、アメリカ人と日本人だけはだめだ」
娘「それ、どんな人でもええ、にはならんじゃないの。フランス人だったらええの?」
父「いや、それは別よ」
娘「なんや、注文あるんやないか、いっぱい」
父「一応は、とにかくは、朝鮮人だったら、いい!」
娘「ふーん」
父「それが第一」
娘「朝鮮人って、それはどういう朝鮮人? いろいろあんねんで、今は」
父「朝鮮人と言ったら、朝鮮人がいいんだよ。アボジみたいな人のことだよ」
母「国籍は問わない? 韓国籍朝鮮籍かは問わない? それは関係ない?」
娘「アメリカ国籍の朝鮮人はどないするの?」
父「あかん、アメリカは……」
娘「全然誰でもいいことになってないやんか」
父「お茶! はい、すみません」
……
父「とにかく、私の娘がこうして成長して、私の言うことを聞こうと聞くまいと、私の思い通りになろうとなるまいと、私は嬉しいんだよ。成長したから。大きくなった」


(この映画を未見の方は、以下、要注意)
娘は父と母と兄たちを訪ねて北朝鮮に行き、兄たちの家族と共に過ごし、父と国籍について語り合い、結婚について語り合い、父と母とのなれそめを聞き、家族の歴史を語り合い……、
そして、映画のラスト近く、病んで入院した父と娘の会話。娘はやつれた父の手を握っている。

娘「アボジ、ヨンヒも幸せだわ。アボジとオモニがこんなに仲いいから」
父「うーん? 幸せや」
娘「アボジとは、ちょっと、ヨンヒ、思想が違うけどな」
父「違わない」
娘「考え方、ちょっとちゃうとこがあるけど、アボジとオモニの娘で幸せやわ」
父「ああ」
娘「アボジがうらやましいわ」
父、泣く。
娘「オモニがうらやましいわ」
父、泣き続ける。
娘「がんばろうな、がんばってピョンヤン行こうな」
父「がんばってピョンヤン行こう!」

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私自身も体の感覚としてわかる、父と娘の光景、家族の光景がここにある。私の家族(なんとなく民団系・横浜居住・慶尚道出身)と、ヤン・ヨンヒ監督の家族(覚悟の総連系・大阪生野と北朝鮮ピョンヤンに居住・済州島出身)とでは、同じ在日でも全く違う文化を生きてきたとも言えるほどに両極端なのだが、それでもこの光景は皮膚感覚でわかる。アボジの思想は、家族と共に家族のために必死に闘って生きるその体から、その心から、にじみ出るものであって、頭でこねくり回したものでないから、だから父と娘は思想が違っていても「違わない」。「違わない」けれど、父と娘はやはり違う。そんな光景のなかに潜む痛みに突き動かされて、「違うけれど違わない」ことの意味を娘たちを探り始める。