記憶は死者が命じる。

『災厄と身体 破局破局のあいだから』(季村敏夫 書肆山田)を読む。
そこには、心の深いところからじりじり滲み出して、出会った者の心の深いところへとじんと染みこんでいく、そういう限りなく沈黙に近い声がある。

たとえば、「死なんとぞ、遠い草の光に」と題された石牟礼道子さんと季村さんの対話の中のこんなやりとり。

石牟礼:それこそ全身全霊で訴えようとおもっていることは、或いは逆に訴えまいと強くおもうこと、訴えまいというおもいも人にはありますよね。
季村:訴えまいとする重量が、訴える行為の背後で支え、しかもうまく拮抗していないと、訴える行為は頽廃します。

季村:あの人、元気かなあというおもい。この震災で、ほんとに多くの出会いがありました。しかし、できるだけ淡くありたいっておもっていました。人との関係は、できるだけ抑制しなければとおもっていました。

季村:敢えてその人の名前を聞かないで別れるという抑制がないと。ああ今頃、あの人はどうしているんだろう、という、たとえ会うことができなくとも、かろうじて繋がるということを大切にしたいとおもいます。

あるいは、「書かれたこと、書かれなかったこと」という小文の中のこんな一節。
「書かれたことは、なにごとか隠蔽している。隠蔽、その所作に、制度、拘束、捏造などが無意識のうちに孕まれる。
 復興もまた然りである。カタストロフィーから立ち上がる行為、そこにも隠蔽がしのびよる。隠蔽され、切り捨てられた沈黙、そこに敗者と死者がうごめき、ひたすら暴かれることを願っている。
  …中略…
 書かれるや否や、ささやきはじめる声がある。沈黙にうごめく、文字以前のざわめきだ。」

もしくは、「記憶のための試み」のこんな一節。
「記憶は死者が命じる。深く想起せよと」