第3章「植民地の民衆」扉の言葉より。

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「みんな、内地で哀れな生活をしとればしとるほど、朝鮮で飛び跳ねて、ぜいたくな暮らしをしたいわけな。逃げてきたばかりの貧乏生活を、あざ笑いたいわけな」

被抑圧者から抑圧者への変貌は、瞬時に起きる。被抑圧者は、その抑圧が強ければ強いほど、自分も抑圧者になることを夢見ている。抑圧者への変身プログラムは、いわば被抑圧者の中で完成されている。植民地は、そのプログラムの実現を制度的に保障し、人種主義で正当化した。植民地に行ってなお、朝鮮人にシンパシイを持ち得た二人の民衆が、二人とも自分は最低の人間であると信じていた、いや信じ続けていたことは、興味深い。その制御ロックだけが被抑圧者か抑圧者かの二者択一モデルを防ぎ得たのだ。
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この本の編者は上記の状況を、民衆の共食いという。

私は、島の記憶を拾い集める石垣島のわが師匠水牛老師の、大衆こそ恐ろしいという言葉を思い出す。状況に応じて人は容易に人非人になれるのだという。村であろうと、島であろうと。近代都市に生きる人々がどんなにそこに夢を託していても、そこにはやはりおまえと同じ人間しかいないんだと。

民衆は純朴なばかりでも善良なばかりでも哀れなばかりでもない。だが、哀しい存在であるのは確かだろう。