第3章「植民地の民衆」のうち 「カフェと遊郭」。そして植民地をめぐる想像力のこと。

「朝鮮じゃみんな飲みよった。飲まん人間は居なかった。行くのはほとんどカフェだった。九竜里に行けば、ドラゴン、春雨、楽園会館。天機里に行けば、赤玉、オリオン、金春、武蔵食堂……」


興南遊郭が賑わったもん。松ヶ野町というて、柳亭里社宅の手前が遊郭だった。」

「松ヶ野町は、泊まって六円から七円五〇銭、一発で二円だった。熊本の二本木でも、泊まりで七円五〇銭。遊郭の値段は、内地も朝鮮も全国統一価格やったっじゃろ。」

「朝鮮ピーに行けば、一発一円五〇銭だった。一発やるうち、ちょっと時間が長くかかれば、
「早くみじゅ(水)出しなさい」
ていいよったったい。
「いやぁ、待て待て」
て。ハタハタて魚を干して、スルメみたいになっとるのがあった。女はひっくり返っとって、ボボさせる方で、カリンカリンやって食うとたい。そして水出せて。咸興に行けば、ロシヤ人の女ばかりいる遊郭もあったっぞ」

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朝鮮人のことは、ヨボ、ヨボと呼んでバカにしていたから、朝鮮の女と付き合うことはなかったけれども、商売女は別、それは人種の問題じゃなくて、金の問題、という声もあった。


こういう話を聞けば、貧困の問題が人種・民族の問題に巧みにすり替えられる、そのようなものとして認識する(あるいは、認識させられる)回路が、いとも簡単に人々の心と頭に刷り込まれていったことも垣間見える。



第四章「植民地の崩壊」の扉の言葉には、このような記述がある。

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フランスの植民地であったチュニジア出身の作家アルベール・メンミは、植民地解放のプロセスを明らかにした。植民されていた民族は突然姿を変えて、植民していた民族と対等の者となり、そのあとで恐ろしい敵になる。以降すべてがいままでつけていた符号を変え、すべての価値が逆転する。被植民民族は植民民族の価値そのものの名において要求し、たたかい、後者の思考法や闘争法を使用する。だが、被植民民族が最終的に自由になるためには、振子の揺れ戻りではなく、別のやり方、植民民族から独立した形で自己の姿を考え、自己を再建しなければならないのだと。
 興南における敗戦後の進行は、ほとんどメンミの言葉通りであったように思われる。遠野富蔵さん(大正一四年生)は、「平たく言えば、日本人さまが朝鮮やろうに、朝鮮やろうが日本人さまになった。また、朝鮮人は日本人になるのにまるで一生懸命だった」
(中略)

日本人はいままでの社宅を出て、朝鮮人社宅に移ることを命令される。荷物は持てるだけ一回限りという条件で。以降日本人は、速やかに難民化していき、冬を迎える中で本当の災厄が始まる。

(中略)

その過程は一面で、日本人民衆が朝鮮人民衆の生活と感情、日本人への対応の仕方を追体験していくことでもあった。朝鮮人社宅の劣悪さも、住んでみてはじめて分かった。泥棒することもやむを得なかった。「朝鮮人の工場」に、日本人は人夫で就労を始めるが、今度はどうやって仕事をサボるかだけを考えるようになる。


そして、

どん底のまたどん底に落ちたとき、「朝鮮人は日本人のようではなかった。朝鮮人オモニのおかげで水俣に帰って来れたのだ」

一方で、

やっと帰り着いた水俣で引揚者を待っていたのは、敗残者を見る冷たい視線だった。朝鮮の話は、その栄光も悲惨も共に水俣の民衆には通じなかった。

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つくづくと思う。
人間の想像力などというものは、ちっぽけでうすっぺらで、すぐにほかの誰かに色に染められてしまうものなのだろう。
想像力も及ばぬところに自分自身が追いやられて初めて気づくこと知ることの、悲惨。

「どこか心の煉獄」のような場所に閉じ込められたという民衆の植民地体験がある一方で、植民地体験を存分に活用した窒素と国家の戦後がある。

口を封じられた生者と死者たちの沈黙、あるいは傷、あるいは深い闇を抱え込むことによってこそ、戦後日本の繁栄は謳歌されたのだということを知る。