寛政(1789〜1801)年間 山伏祭文を本所四つ目の米屋の亭主 米千が三味線と合わせて語りだして評判になる。

初代薩摩若太夫 三味線で語る説経が評判となる。しかし、これはもともとの語りの形に戻っただけ。それもわからぬほど、説経はその当時衰退していた。

★薩摩若太夫による「説経祭文」は、途絶えた伝統の再生であった。

◆堺町 薩摩座で操興行へ。

◆嵯峨御所(大覚寺御門跡)に願い出て免状を頂戴し、説経節家元となる。


この件につき、三田村鳶魚曰く、
説経は昔から家元などというものはない。また家元のあるべき筋合のものでもない。だが三味線にさえ離れた説経を回復し、特に大坂与七郎以来の人形にも有り付かせた若太夫の功績は、彼を一派の権威として、昔はなかった家元に押し立てる理由もあろう」