歌祭文・歌説経

三田村鳶魚曰く、

歌念仏の徒が説経本を使用したのが「歌説経」である。
語り物としての「説経」が、唄い物としての「説経」へと変じる。


「縁起因縁の法話が、和讃の節奏を借り、編木(びんささら)に和して、最初の説経が成立し、無文であったものが、祭文のごとく有文にもなって、系統を浄瑠璃へ引くようになった」


「説経は鉦打ちに落ち、祭文は山伏に堕ちて対立したが、説経は早く操に托して威勢を見せた。」

「似寄りな経路を辿った祭文は、立遅れ気味であった。それでも元禄・享保間には、操座に占拠することはなかったけれども、豪儀に流行したものだ。これも歌祭文になって、世間に騒がれたのである。」


「歌念仏が説経を占領して、聞かせたのは文句じゃない。声である。節である。」
(それは歌祭文もまた同様)


★歌祭文・歌説経が登場して以降、祭文と言い説経と言えば、それは歌祭文・歌説経をさすこととなる。


(語りは、歌へと変じていった。)


「元禄前後には、歌説経・歌祭文・歌浄瑠璃といって、語るものも読むものも、すべて歌うものの方へと傾いてゆく」



(歌舞伎へ進出した説経は、歌説経であった)