これはもう40年ほども前の文章なのだ。しかし、在日する者たちを取り巻く日本の状況は何ら変わってないように見える。いっそう苦しいとも言える。そこにあるのは、「極めて政治的な、非政治の思想」という壁。


<以下、「政治と文学」からの抜き書き>


 在日朝鮮人の私に即せば、私をくるむ日常そのものがすでに“政治”であり、十重二十重に私をくるみこんでいる“日常そのものだけが、私の確かな詩の糧となる私の“文学”なわけだ。したがって“政治”は、日常不断に私とともに在るものである。よしんば純粋を決め込めるだけの間柄にあっても、その関係の平穏さがかもす非政治的なるものが、私の生存を規制する力に無防備かつ、無関心である限り、その対関係は私を損ねるものとの対峙のうちにあるものと言わねばならない。非政治のはずのものが、もっともきびしい政治力として作動してくるゆえんである。



  日本の練達な詩人たちの言葉を金時鐘は「純粋な『言葉』」と言う。
  身を挺して立ちはだかってくれる“日本の友人”像など、その純粋な「言葉」の光からはどうしても浮かび上がってこないのだ、と言う。


<さらに、抜き書き>


 在日朝鮮人の私と、多くの日本の詩人たちの間には、かくもすぐれて政治的な断層が“文学”の創造課題の中に横たわっている。
 
 それはもはや思想の断層とでも言っていいものである。日本の近代文学の成り立ちとともに日本の自然主義美学観を根づかせてきた、重々たる日常の重なりそのものである。“政治”はいつも、この系譜の培いの中で文学の埒外に置いておかれた「別物」だったのだ。お茶を飲む、手紙を出す、生活綴方から子どもの作文に至るまで、ものの見方、感じ方を取り仕切っているのが実は極めて政治的な、非政治の思想であることをどうすれば皆に分からすことができるだろう。