「歓待の行為は詩的なものでしかありえない」とデリダは言う。しかし、詩的なもののなかからこそ、不可能な歓待を可能ならしめる世界は到来するのではないだろうか。


まずニーチェの声。
「おお、人間よ、そなた、高等な人間よ、心せよ! 次の言葉はさとい耳に、そなたの耳に聞かせるためのものだ――深い真夜中は何を語るか?」


そして、ヤン・パトチカの声。
「人間は不安をかき立てるもの、和解不可能なもの、謎めいたものを自分の中に増やしていかなければならない。日常生活はそこから離れて昼の次元に移行してしまう」

※昼の知の全体主義、とでも呼ぶべき危機がある。いま、われらに夜の声は聴こえているか?




デリダは問う。
「歓待を供するためには、確固たる住まいの存在が必要なのだろうか。それとも真正な歓待が開かれるのは、庇護の不在、わが家の不在といった場の解体から出発することによってだろうか。おそらく家の喪失という経験を堪え忍ぶ者だけが、歓待を供することができるであろう」



絶対的歓待と条件付き権利・政治・倫理――相反していながら、不可分なものとして――
(カントの論議を下敷きに)



「絶対的で誇張的で無条件な歓待とは、言葉を停止すること、ある限定された言葉を、さらには他者への呼びかけを停止することにあるのではないか。つまり他者にたいして、あなたは誰だ、名前は何だ、どこから来たのだ、などと尋ねたいという誘惑は抑えなければならないのではないか。さまざまな必要条件を通告するような問いを問うことは控えなければならないのではないか。さもないと歓待には限定が加えられ、権利と義務に縛り付けられ、そこに閉じ込められてしまうのではないだろうか。こうして歓待は、円環の経済=配分法則に閉じ込められてしまうのではないか。



「一方には、歓待の無条件な掟や歓待の絶対的な欲望、そして、他方には、条件付きの権利・政治・倫理があるとします。これら二つの間には区別や根本的な異質性がありますが、それらは不可分でもあります。一方は他方を呼び求め、含み、命令として課すのです。」



●最後に残された二つの問い


「無条件の歓待にいわば正当性を認めることによって、限定され、制限可能で、限界を確定されうる法=権利にどのようにして場を与えればよいのでしょうか。歴史、進化、実質的な革命、進歩など、完璧にされうる可能性を備えた政治や倫理に。前代未聞の歴史的状況からの新たな命令に応答し、法律を変え、市民権、民主主義、国際法などの定義を変更することによって、それに対応するような政治、倫理、法=権利に、どのように場を与えればよいのでしょうか。これは、無条件なものの名の下に、歓待の条件に実際に介入することにほかなりません。たとえ純粋な無条件なるものは到達不可能だとしても」


「これまで選んできた例はすべて、客であれ的であれ、異邦人にたいする歓待の権利や、異邦人にたいする関係の構造において、同じものが支配していることを示すことにありました。同じものとは、父権的でファロス=ロゴス中心主義的な婚姻のモデルです。歓待の掟を課すのは、家庭の暴君、父親、夫、主人、家の主などです。(中略)この者は掟を代表し、掟に服従することによって、他者をも掟に服従させ、歓待の権力〔=能力〕の暴力、この自己性の潜在的能力を行使するのです。」
(cf 聖書のロトと娘の物語)