石牟礼道子にとってアニミズム神は呪術神でもあるということ。


鳥獣虫魚草木石水風 アニミズムの神々を単に素朴な善良な神々なのだとは、石牟礼道子は思っていない。


『神々の村』P279
 日々の暮らしとともにどこにでもいたあの在野の神々は、もとをただせば、人びとの災いを身に負うていた身替り仏であったり、災厄の神などと相討ちなどになって果てたりして、村の守護神となったうつつのヒトでもあったから、そもそも、はじめから神格などをそなえていたわけではなく、むしろ生きていたときの姿というものは、なまなまとした人格であったにちがいない。そのような神々は、岩の中から生まれたり、人びとが野尿を放つとき、草の穂の先に宿っていて、飛び出て来たり、祭りの野宴のにぎわいの中に、にぎわい神といわれる年とった女房たちの中などにもついていたりするのであった。
 
(中略)

 のちのち人びとが気付いて信じられる神というものは、人神一如でなければならず、それはひとや生きものの気息の中につねにひそんでいて、ただちに対者に乗りうつって来ねばならなかった。ほとんどのアニミズム神たちはまた呪術神でもあり、呪術神と災厄はつねに結びついてもいたのだった。



苦海浄土』第一部「死旗」P74 〜75
私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代の呪術師とならねばならぬ。