お盆休みも翻訳ホンヤク日々ほんやく。

『長江日記』(鄭靖和著)を翻訳している。本当のデッドラインの締切目前で凄まじく追いこまれている。

 

鄭靖和はこんな人。

鄭靖和(チョン・ジョンファ)

 1900年8月3日ソウルに生まれ、11歳になる年に大韓協会会長であった東農 金嘉鎭キム・ガジン(1846∼1922)の息子金毅漢キム・ギハンと結婚した。21歳になった年に既に中国・上海に亡命していた義父と夫のあとを追って上海へと脱出。中国で亡命生活を開始した彼女は、まもなく臨時政府密使として独立運動資金を募る密命を帯び、地下組織を通じて朝鮮に潜入、ひそかに密命を遂行した。

 第一次潜入以降、6回にわたって国境を行きかい、二十代の花のような年月を捧げた彼女は、1932年尹奉吉義士の爆弾投擲事件のために臨時政府要人たちともに上海のフランス租界を脱出。亡命政府を支えつつ、解放までの十余年間大陸で逃亡生活を送った。

 重慶で祖国解放を迎え、既に五十代になろうとしていた彼女は戦争難民という名で祖国に足を踏み入れたものの、ふたたび6・25(朝鮮戦争)に巻き込まれ、夫が北に連れ去られたため家族がばらばらとなってしまうのだが、その渦中で附逆(国家反逆)罪で拘束・起訴され、投獄されてしまった。

 それから40年の歳月が流れ、彼女は自身が生きてきた百年近い苦闘の歳月のすべてをついに証言し、1991年、恨多き生涯を閉じた。

 

上海、重慶で臨時政府に関わった韓国独立運動に名を連ねる要人たちの活動を支え、また夫とともに自身もまた独立運動に、妻として、母として、女性として、人間として、表舞台には出ることなく、さまざまな形で関わっていく。

解放後に暗殺された金九との関わりの深い人でもある。それゆえに解放後の権力闘争の勝者である李承晩の韓国(新たな支配者米国の意向で植民地の体制がそのまま温存された韓国)では、ひどく生きづらい状況に追い込まれもする。

そもそも臨時政府関係者たちは、解放後、個人の資格で、あるいは単なる難民として朝鮮半島に戻ることしか許されていない。米軍政によって力を削がれた形で帰国するところから、彼らの建国をめぐる闘いははじまり、そのほとんどは敗者となって消えていった。

鄭靖和が86歳にして臨時政府とともに闘ったその人生を語りだした時、それは、解放前の人生と解放後の人生がつながらないまま、かつての闘いがまるで意味のなかったかのように新しい国家にぞんざいに扱われながらも、その新しい国家が本当に取り戻すべき国家であったのかを問いながらも、語りつぐことそれ自体に明日への希望を託して、彼女だけが知る臨時政府秘史を、細やかなひとりひとりの思い出ととも呼び出してみせたのだった。

暮らしの中で接しつづけた独立運動家たちの素顔を彼女が語れば、かなり人間くさい。

臨時政府に集った人びとの独立運動とは、異国にあって、いかに食べて、命をつないで、闘うかという生存の問題でもあったことを彼女は如実に伝える。

どんな状況でも欲(名誉、権力)に囚われた人間たちのつまらぬ葛藤があることもまた彼女は語る。

遺言としてその物語を語る86歳の彼女のその声に、翻訳しながら触れていった私は、いま翻訳が終わろうとしているこのとき、やや涙ぐんでいる。これには自分でも驚いた。

闘いは必ずしも勝利では終わらない。たいてい負けるものなのだろう。

そして、その闘いの物語は、敗者の中でももっとも見えないところで主だった敗者たちを支えていた者の謙虚な肉声で語られる時、忘れがたい人間の物語(忘れてはならない人間の物語)として聞き手に届けられるようなのである。