「非政治的基底からの共闘」(70年9月『現代の眼』所収)
閉山した筑豊の炭坑の元坑夫たちが流浪の労働者として流れ込んでいった北九州・八幡製鉄所での労働組合運動をめぐって、
北九州を拠点とする「沖縄を考える会」の活動をめぐって、
「考える会」が打ち出した「6・15北九州人民集会」をめぐって、
その結果、見えてきた「人民大衆」をめぐって……。
炭坑閉山後の森崎和江の状況に対して、関わる人びとに対して、そして自分自身に対して、あまりにも誠実な闘いの風景を覗き見る文章。
ずっとこんなふうに生きてきた人なのだと、胸が苦しくなるような思いで読む。
その遠心的結集軸への模索は、いわば同民族同階級内の異族との共闘である。同族文化内の異質との対応しか知らなかった私たちの意識にとって、異族とは何か。朝鮮民族までも私たちの意識の型でしかとらええなかった私たちにとって、異族の遺族的特性が有効性をもってくるのか。
たとえば沖縄解放とは何か。沖縄県民を異族として認識し共闘する勇気や根拠を私たちは持っているのか。その固有の歴史から本土との同祖同根的側面を抽出して共闘したり、あるいはその固有性のなかで共同体験とはなりがたかった歴史的・思想的側面のみを抽出して異質文化のフォク率へと追いつつ共闘と称したりする道以外の道を創造しうるのか。朝鮮民族に対しても。また階級内の他の原理を軸とした結集に対しても。
多くの渦をもちつつ流浪しはじめているその音が聞こえるのである。結論を急ぐべきではない。