『分解の哲学  腐敗と発酵をめぐる思考』(藤原辰史 青土社)   メモ

「土や水や微生物のはたらきはもっとアナーキーである」

 

「生命を生存させたままで<帝国>を死滅させるにはどうすればいいのか。そのヒントもやはり腐敗、つまり分解にある。」

 

生産力を基盤にした発展史観の上に形作られる「世界」、(この世界の行き着く先はオーバーヒート、自爆だ)、そこに生きる「生産・建設の主体」というイメージ(想像力)への囚われから、いかにして脱するか、

いや、そのイメージをいかにして分解するか、そこが藤原辰史の議論の重要なポイント。<帝国>の爆死に巻き込まれない、そこが大事。

 

もしも、<帝国>を爆死ではなく腐敗死させることができるとすれば、人間中心的に言えば、その腐敗死のあとに巻き添えにならない。そのときマルチチュードは、つぎの三つのはたらきを担うことになるだろう。

 

①土壌に生息する生きものたちのはたらきのように、互いに好き勝手に、解体、分解、修理を遂行する。(中略)いまある耐久財を半永久的に使用できるように、分解と修理を科学および芸術の領域にまで引きずり込むことがまず必要。

 

②農業に従事するマルチチュードも、土壌の腐敗作用を最大限活性化する。

 

マルチチュードが「食べる主体」になる。(中略)現在「食べる」行為は、生産ラインの尻尾にくっつくおまけでしかない。(中略)もしも、食べものの腐敗、解体、消化、排泄の過程にもっと時間をかけ、エネルギーが投じられれば、ようやく食べることは回復する。(中略)食べることは、分解過程のネットワークの一部であり、つねに受動的である。受動性を引き受けつつ、それでも、大量生産され大量廃棄される食品流通システムの端末装置にならないような自律性が求められる。食べる主体は、すべてを自分で決定し行動する主体とは異なる。(中略)人間が生態系の一部であり、生態系そのものであることが認識されると、マルチチュードは情報網に頼らなくても互いに連結できる。修理・修繕も、省農薬・省化学肥料の農業も、そして時間をかける料理も食事も、それ自体、人間関係を自然と連結する行為だからである。

 

活性化させるべきは生産過程ではない。分解過程なのである。