備忘録 田村語りにまつわること  その2

奥の細道 末の松山・塩釜

 

それより野田の玉川・沖の石を尋)ぬに末の松山は寺を造りて末松山(まっしょうざん)といふ。

松のあひあひ皆墓原(はかはら)にて、はねをかはし枝をつらぬる契りの末も、終にはかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞く。
五月雨の空いささかはれて、夕月夜かすかに、籬(まがき)が嶋もほど近し。
あまの小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「綱手かなしも」とよみけむ心もしられて、いとど哀れなり。
その夜、盲法師の琵琶をならして奥じょうるりといふものをかたる。
平家にもあらず、(幸若)舞にもあらず。
ひなびたる調子うち上げて、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚えらる。

 

 

浮世風呂』前編巻之下「午後(ひるすぎ)の光景」より 

五人づれのさとうのうち二人の盲人、風呂の中にてせんだい浄瑠璃を語る。

「さる程に爰に又、九郎判官義経どのが、八島をさして下らるる、(引)。扨早、其日の出立には、上には赤地の錦の直衣(ひだだれ)を引張り、下(しだ)には紺の布子(ののこ)のどてらを引張りけり(引)。附属(つきしたが)ふ御供には亀井・片岡・伊勢・駿河・西塔の武蔵坊、彼等なんどが御供にて、尻から泥水の流れるやうに下らるる(引)。(中略)そもそも真桑瓜とかけては、俵藤太秀郷と解きまする。其心はあんだんべ。むかでかなわぬと解きたり。御大将我折果(おんでへそうがおりはで)だよ。コリャ又弁慶は日本一の謎解きの名人だよ。よろこびいさんで八島の浦へ着にけり。(中略)おつかけまわつて弁慶が、三尺あまりのめめずのとげを、あたまのどんのくどへ、ふんづらぬいたツけ。是には何かよかんべい。ハテ朧豆腐の黒焼がよかんべいとぞかたりける。(中略)御代もかさねし万々歳、貴賤上下おしなべて感ぜぬ者こそなかりけれ。」

風呂の中にていちどうに ヤンヤヤンヤ。

 

 

菅江真澄 遊覧記 「かすむ駒形」 

天明六年(1786)一月~二月の日記

2月6日

六日 あしたは春雨めきて、夕月ほの霞て出ぬ。琵琶法師来りぬ。是も慶長のむかしより三線(サミセム)にうつりて、猫の皮も紙張の撥面ニ化(カハ)りたるが多し。曽我、八嶋、尼公物語、湯殿山ノ本事、あるは千代ほうこといふ女の戯ものがたりなンどの浄瑠璃をかたれり。こたびは「むかし曽我也」声はり上て、「ちちぶ山おろす嵐のはげしくて、此身ちりなばははいかがせん」と、語り語りて月も入りぬ。明なば とく出たたむとて枕とれば、ひましらみたり。

 

2月21日

廿一日 けふは時正也。近隣(チカドナリ)の翁の訪来(トヒキ)て、都は花の真盛ならむ、一とせ京都(ミヤコ)の春にあひて、 嵐の山の花をきのふけふ見し事あり、何事も花のみやこ也とて去ぬ。数多杵(アマタギネ)てふものして餅搗ざわめきわたりぬ。けふも祝ふ事あ り。日暮れば某都某都(ナニイチクレイチ)とて両人(フタリ)相やどりせし盲瞽法師(メシヒノホフシ)、三絃(サミセム)あなぐりいでてひきた つれば、童どもさし出て、浄瑠璃(ゾウルリ)なぢよにすべい、それやめて、むかしむかし語れといへば、何むかしがよからむといふに、いろりのはしに在りて 家室(イヘトジ)のいふ、琵琶に磨碓(スルス)でも語らねか。さらば語り申さふ、聞きたまへや。「むかしむかし、どつとむかしの大むか し、ある家に美人(ヨキ)ひとり娘が有たとさ。そのうつくしき女(ムスメ)ほしさに、琵琶法師此家に泊りて其母にいふやう、わが家には大牛の臥(ネタ)ほど黄金(カネ)持たり。その娘をわれにたうべ、一生の栄花見せんといへば母の云やう、さあらば、やよ、おもしろく琵琶ひき、八島にてもあくたまにても、よもすがらかたり給へ。明なば、むすめに米(ヨネ)おはせて法師にまいらせんといふを聞て、いとよき事とよろこび、夜ひと 夜いもねず、四緒(ヨツノヲ)もきれ撥面もさけよと語り明て、いざ娘を給へ、つれ行むといふ。先(マヅ)ものまいれ、娘に髪結せ 化荘(粧)(ケハヒ)させんとて、磨碓(スルス)をこもづつみとして負せ、琵琶法師の手を引かせて大橋を渡る。娘は、あまり負たる俵の重くさふら ふ也、しばらく休らはせ給へと、休らひていふやう、いかにわがおやのさだめ給ふとも、目もなき人の妻となり、世にながらへて、うざねはかん〔うきめ見んと いへる事也〕よりは今死なんとて、負ひ来つる台磨碓(シタスルス)をほかしこめば、淵の音高う聞えたり。女は岩蔭にかくれて息もつかずして居たり。かの琵琶法師ひとりごとして云やう、あはれ夫婦(ウバオチ)とならむよき女也(ムスメ)と聞て、からうじて貰ひ来りしも のをとて、声をあげてよよとなき、われもともにと、その大淵に飛込て身はふちに沈み、琵琶と磨臼はうき流て、しがらみにかかり たり。それをもて琵琶と磨臼の諺あり。とつひんはらり」と語りぬ。

 

昭和の盲法師 故・鈴木幸龍の「悪玉懐胎の様子」

昭和8年7月)

さても浮き世は広いもの、悪玉がようなる女めと契りたる男はよっぽどさもしい悪性者、達磨のようでぢつくりで、しかも反っ歯で獅子鼻で、どんぐり眼に額のかけ下げ、鳩胸で尻が出て足がちんばの、髭だらけ、さても似合うた夫婦づれ、吸いついたりひっついたり、何んぼう嬉しがったろう、おかしうておかしうて臍がよぢれる腹痛いぞと高笑い (後略)

 

※奥浄瑠璃に元来正本は存在しない。「生きた語り」は、時・場所・聴衆・語る人のそれぞれのおかれた条件や状況によって演ずる時間も語る内容まで変幻自在に変化する。

創造行為としての語り。