童謡「半月」に寄せて。
作詞・作曲 尹克栄
푸른 하늘 은하수 하얀 쪽배에
계수나무 한 나무 토끼 한 마리
돛대도 아니 달고 삿대도 없이
가기도 잘도 간다 서쪽 나라로은하수를 건너서 구름 나라로
구름 나라 지나선 어디로 가나
멀리서 반짝반짝 비치이는 건
샛별이 등대란다 길을 찾아라
[映画「マルモイ」と童謡「半月」]
以下、『30年代 童謡選集』解説より
「月の上でうさぎが桂の木の下で餅つきをするなどというのは、もう昔話になってしまった」現代から、植民地期の童謡を振り返る。
1920年代から光復まで歌われた韓国の童謡は、子どもが歌って遊んで楽しむものであっただけではなく、帝国主義強占期にあって民族の抵抗を鼓吹する手段でもあった。
当時の音楽状況といえば、日本式教育による唱歌などの普及により、日本の流行歌が流れはじめ、その一方で西洋音楽の導入により新式音楽が流行した。
(日本でもそうであったが、新しい音楽はまずは子どもたちが教育によって西洋音階を身につけることからはじまっている。日本においては唱歌を歌う子どもたちは、そのまま軍歌を歌う兵隊へと育ってゆく。もちろん流行歌も歌う。植民地期韓国での日本式唱歌教育はすでに大韓帝国を保護国化した1905年以降から少しずつ始まっている。日本の学校唱歌が韓国語に翻訳されて、韓国の学校教育において教材として用いられた。1910年5月には、日本の学校唱歌をそのまま韓国語にして収めた「普通学校唱歌集」が出版されている。例えば、その一つに「蝶々」のような今でも日本でも韓国でも歌われる「唱歌」がある。)
※1910年5月といえば、これはまだ日韓併合前、保護国段階でのこと。
そのなかで、1920年代に、今も歌い継がれている「半月」、「故郷の春」「鳳仙花」のような童謡が、韓国人による創作童謡として生まれてくる。
そこには「半月」(1924)を作詞作曲した尹克栄(1903~1988)の活動がある。
1923年3月、京城で、방정환(방정환(方定煥)を編集人として、月刊誌「어린이」創刊。
方定煥は天道教(東学思想の組織。3・1独立宣言に参加)の少年会で活動をしていた。
雑誌「어린이」は天道教少年会の機関誌として発行され、童謡・童話・児童劇脚本等が掲載され、毎月一つずつ、創作童謡が発表された。
雑誌「어린이」からは多くの童謡作家、童話作家が誕生した。1934年廃刊。
1923年5月1日、東京で、방정환(방정환(方定煥)が提唱する子ども文化運動の組織として「セクトン会」が組織され、そこに尹克栄も創立メンバーとして参加。
方定煥が1923年のある日、東京留学中の尹克栄を訪ねてきたのだという。尹克栄は方定煥との出会いにより、朝鮮の子どものための朝鮮の歌という思いを抱くようになる。
彼らは、朝鮮の子どもたちに、朝鮮の言葉、朝鮮の調べ、朝鮮の情緒をと、文化運動を繰り広げた。
父親の助力で自宅敷地内に「一聲堂」という別棟が造られ、尹克栄はそこで実際に子どもたちに指導し、童謡を普及する活動をする。その活動母体としての「ダリア会」も組織(1924年8月)。
尹克栄の童謡創作の本格的な試みはこの時期に始まり、「半月」は1924年に東亜日報に発表されている。
1926年にはダリア会の子どもらが歌う「半月」が収められた童謡レコードも発売されている。
(ちなみに、朝鮮で初めてSP盤が発売されたのが1925年のこと。京城放送局の開局も同年)。
자신이 만든 노래들을 당국의 감시를 피해 등사판으로 몰래 찍어 초등학교 교사들에게 보냈다. 이 노래들은 순식간에 전국으로 퍼져나가 어린이들이 즐겨 부르게 됐고 총독부도 이를 막을 수 없었다.
(尹克栄は)自身が作った歌を当局の監視の目を盗んで謄写版でひそかに印刷し、初等学校の教師たちに送った。歌はあっという間に全国に広がり、子どもたちが喜んで歌い、総督府もこれを遮ることはできなかった。
(聯合ニュース 2017年10月2日)
※映画 「말모이」の挿入歌に「 반달」が流れる。そのことの意味がここにある。
雑誌「어린이」誕生の背景には、日本の童謡運動の揺籃となった『赤い鳥』(1918~
1929年休刊、1936年廃刊)の存在がある。
『赤い鳥』は北原白秋の協力を得て、鈴木三重吉にとって創刊された。