『初期出版界と古浄瑠璃』(柏崎順子)という論文を読んでいる。
まず基礎知識。
◆古浄瑠璃の展開について。
①語り物の時代 街道筋で浄瑠璃が語られていた時期
②慶長・元和期 操り浄瑠璃成立の時期
③寛永期(正保・慶安) 正本の刊行が開始される時期
④承応・明暦・万治・寛文期 創作の時代ー作者の登場
⑤延宝・天和期 宇治嘉太夫の登場
◆正本刊行に先立って、慶長・元和期の古浄瑠璃演目のほとんどは、浄瑠璃以外の説経や舞曲でも語られていた。
「詞藻に限ればジャンル間の差は余りない」 (← これ重要)
浄瑠璃正本の本文には、寛永から正保にかけて、幸若舞大頭系の本文に依拠しているものが散見される。
つまり、これは、正本本文が耳で聞いて採録したものではなく、明らかに書承によって成立したということ。そして、それは、出版書肆と浄瑠璃の関係があってこそのものだということ。
書肆と浄瑠璃の提携関係! 両者一体の商業ビジネス!
「本屋は作品作りに関与し、浄瑠璃は舞台でそれを上演する。人気作品であれば、芝居も儲かり、本もまた売れたのである」
「本来は語り物である浄瑠璃を本文化できる体制、即ち興行界との繋がりが成立しているからこそ営業を開始できるわけである。つまりこうした新興の書肆が営業を開始する時点で、浄瑠璃との関係はあらかじめ約束されていたと考えられる」
◆浄瑠璃本を出版した本屋は「草紙屋」を自称していた。
当時、草紙屋が出版する絵草子は、草子屋によって著された作品であった可能性大。とすれば、草子屋には既成の草子類のテキスト、挿絵、商品の集積があり、草子作りのノウハウの集積もあったはず。
浄瑠璃本を出版する書肆は、本文が集積していくセンターのような機能を有しており、他のジャンルの本文の作成にも関与していたと考えられる。さらにその書肆は浄瑠璃の興行界とも何らかの繋がりをもって営業を展開している形跡があり、単なる書肆としての営業というよりは、一種の芸能プロダクションのような機能をもっていたと考えられる。
まずはここまでで十分に、語り物は口承、正本は語りの再現という思い込みが打ち砕かれました。(この思い込みが、今まで、語り物の地理的な伝播を考える上で、想像力の壁になっていったことにも気づかされたという……)
そしてさらに、興味深いことに――
<浄瑠璃界―書肆>の興行ビジネスの背景に伊勢商人の存在があるらしい……。
江戸-京都ー伊勢を結ぶ動き。
これはさらに仙台にまで伸びてゆく。(奥浄瑠璃につながる話だ!)
以下、その話。
◆寛永年間に伊勢嶋宮内という名の太夫が伊勢から江戸にのぼり、さらに京都にやってきて、太夫名の正本も残している。その正本を出しているのは伊勢出身の書肆山本久兵衛(京都)。山本久兵衛が、伊勢嶋宮内の正本を一手に引き受け。
正本製作にあたって、山本久兵衛はセンター機能をフルに発揮し、たとえば、「たむら」(慶安三年八月刊)を刊行するに際し、お伽草子「田村の草子」を借りて、親子二代の物語に再構成するのに謡曲「田村」の構想を用いている。
◆万治・寛文期に、江戸に和泉太夫と浄瑠璃作者岡清兵衛のコンビが金平浄瑠璃を創り出したことで、江戸系の正本を京都でも刊行するという流れができる。(それ以前の草子とは逆の流れ)。
その際、京都の書肆による正本は、江戸の正本をもとに加筆・省略・改変を加えたもので、京都での語りの実演をもとにして成立したものではない。
江戸正本と京都正本は書承的につながっている。(←ここ大事)
つまり、京都の書肆が江戸正本の改訂編集に関わっている。さらには、舞台に先立って書肆がこのような作業をして、太夫に本文を提供していた可能性も高い。
◆万治・寛文期 浄瑠璃テキストは江戸から京都へ、草子テキストは京都から江戸へ、という流れがあった。そして浄瑠璃に関しては、江戸は日比谷横丁の書肆グループ、京都は山本久兵衛グループの両グループが提携している。このグループは、伊勢出身の太夫の正本に深く関わっている。(伊勢は語りの本拠地の一つなのだ)。
◆一方、当時、江戸には、通油町(現在の小伝馬町辺り)に新興の草子屋が次々と現れ、通油町の絵草子屋西村屋与八が、奥州に古浄瑠璃を製本して卸していた。
◆元禄期、通油町の書肆松会(伊勢出身)と仙台の書肆が協力して本の刊行をしている。
◆仙台でもっとも旺盛に出版活動をした書肆は伊勢屋半右衛門という。
◆伊勢商人は江戸を中継地点にして北関東や東北に流通ルートを持っていた。
この江戸と仙台の奥浄瑠璃、絵草子のつながりを考えるとき、その背景に伊勢商人の活動を考え合わせると、説明がつくのだと、論者。
当時の書肆がそういったプロダクション的な機能を持ち得ているのは、その経営自体に伊勢商人が関与していたことで、商売のノウハウや流通ルートも存在していたからであると考えれば、当時、実際に生じている様々な事象、江戸の書肆松会と仙台書肆との相合版出版、奥浄瑠璃と江戸の絵草子屋との関係、仙台の大手書肆伊勢屋半右衛門の存在等、その他多くの出版界における伊勢関連の事象が納得のいくものになるのである。筆者は江戸版について考察してきたなかで、万治年間あたりから江戸で次々と営業を始めた娯楽に供するような本を出版する新興の書肆が、主に木綿業に携わる伊勢商人が軒を連ねていた大伝馬町とその通りに続く通油町に集中しているのは偶然ではなく、同じ伊勢からやってきた商人、あるいは印刷職人のなかに、出版を手がけるものが現れた結果なのではないかと考えている。その中心的書肆である松会が伊勢出身である可能性が高いことも、その蓋然性を高めている。
伊勢商人の屋号は主に「伊勢屋」「丹波屋」など。江戸では主に伝馬町界隈に出店する事が多かったようである。又江戸では伊勢出身の商人はかなり多かったらしく「江戸名物は伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われていた。
伊勢商人は、元々、戦国時代中期から日本に流入してきた木綿を全国に出歩いて行って売りさばいていた存在であった(一例として、本居宣長の実家・小津家がある)。当時の木綿は高級生地であったため、これらから得た利益が彼らを豪商と呼ばれる存在へと高めていった。木綿・呉服のほか、材木・紙・酒を扱った伊勢商人がおり、金融業・両替商となる者もいた。
伊勢おしろいも主な取引品目の一つである。
江戸時代前期に当たる寛永年間から中期に当たる元禄年間にかけて、続々と江戸や大阪、京に出店するものが現れた。これは江戸幕府による支配が安定し、経済制度の整備が進められたことを反映している。
◆同じく、書肆松会に関わること。
松会 三四郎 ()略歴
正本屋、草紙屋と号す。村田氏。元禄期、江戸の長谷川町横町、後に通油町で営業しており、江戸最古の書肆のひとつである松会市郎兵衛の後嗣と思われる。貞享ころから松会三四郎の代にかわる。慶安から享保期に幕府お抱えの書物方御用書肆となり、元禄までに200点に上る典籍を開版している。この版元の刊行物は「松会本」と呼ばれており著名である。
三四郎は菱川師宣の絵本を出版したことで著名であり、貞享4年の『江戸鹿乃子』には浄瑠璃本屋、元禄5年の『万買物調方記』には浄瑠璃草紙屋、元禄11年の『御役付武鑑』には御書物師として載っている。『和国三女』などにみられる「松会朔旦」の「朔旦」とは三四郎の号かとされる。