朝の北上川 宿の窓から
鬼柳鬼剣舞を観に、鬼柳六軒集落へ。
集落の入口の碑石群
永陽大師?
慧燈大師 見真大師
剣舞稽古場
準備中の舞い手たち これから彼らは鬼になる
隠し仏 阿弥陀如来
和賀町岩崎で発見された享保17年(1732)の岩崎鬼剣舞秘伝書によると、
大同3年(808)に羽黒山の法印が悪鬼退散・衆生済度の念仏踊りを老僧から教えられたのが始まりという。
菅江真澄遊覧記の「かすむこまがた」の天明6年2月14日条にも剣舞のさまが描かれている。
鬼剣舞は、親鸞の二四輩のひとり。是信坊によって和賀の地を中心に浄土系の信仰が根付き、一遍やその流れを汲む回国の遊行僧によって念仏踊りが伝承され、その一方で修験道が伝播された鎌倉末期から南北朝・室町初期にかけて成立したと推測されている。
享保の岩崎剣舞秘伝書には、飢饉や百姓一揆後の南部藩の圧政の中でもがき苦しむ農民の祈りが込められていると、『民俗写真帳 わが鬼剣舞の里』には記されている。
南部氏にとどめを刺されて滅んだ和賀氏の紋を鬼剣舞がつけているのは、南部氏への反骨の精神ゆえのことともいう。
寺請け制度で強制的に曹洞宗の寺の檀家とされたこの地の人びとは、本当の弔いは念仏でするのだと、隠し念仏を、隠し仏の前で唱えたという。
剣舞の一番庭にも、念仏が隠しこまれている。
鬼剣舞の反閇に大地に根差した反骨の祈りを感じとった森崎和江の旅路をたどって、
北上の鬼剣舞を訪ねたのだった。
北上川という、かつては人も物も文化も行き交う豊かな水路の賜物の一つでもあったこの地の豊かなる芸能群のうちの一つである鬼剣舞に宿るひそかな反骨。
しかし、現在の舞い手たちはその反骨を語るわけでもなく、ただひたすらに継承されてきた剣舞を納得のゆく形で舞うことを願う。
そして、その舞の形、舞と共に唱えられる念仏、剣舞の仕草こそにこそ「祈り」が宿るのであり、舞いが祈りそのものだとすれば、剣舞についての講釈などは舞う者たちには、実のところ、不要なものなのだろう。
森崎和江を東北へと導いた稀有なる案内人、簾内敬司の「しぐさの記憶」ということを想い起こす。物語が感性・感情の記憶であるように。