『いつか、この世界で起こっていたこと』(2012 黒川創)

黒川さん、チェホフが好きだけど、チェホフ好きな自分がいやなのかな。

詩人アンナ・アフマートヴァみたいに。

 

私もチェホフは好きです。「曠野」とか「学生」とか、とても好きです。

 

たとえば、「学生」。

実家のある田舎の村に帰ってきている神学生イワンは、焚き火のそばにたたずんでいる顔見知りの村の女ワシリーサに話しかける。

「ちょうどこんなふうに、あの寒い夜に使徒ペテロは焚き火に当たって暖をとっていたんだろうね」「その時も寒かったわけだ。なんとおそろしい夜だったろう! どうしようもなく気が滅入る長い夜だった!」

そして、学生はペテロの三回の裏切りの話をはじめる。

最後の晩餐でペテロはイエスにこう言われる。「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と。ユダに売られて、大祭司のもとに連行されたイエスの後を追ったペテロは、中庭の焚き火に当たりながらイエスを一途に思っている。ところが、共に焚き火に当たっている人々に、イエスの弟子だろうと三度尋ねられ、三度「わたしはあの人を知らない」と答えてしまうのだと。「そしてペテロは外に出て、激しく泣いた」。そう学生は語った。

そのとき、話を聞いていたワシリーサの頬を大粒の涙が流れる。

 

焚き火がある。1900年前のペテロとおなじように、焚き火に当たるワシリーサがいる。ペテロの身に起きたことに、きっと何か思い当たる節のあるワシリーサが、いまペテロを想って泣いている。

「千九百年も前の出来事が現在とつながりを持っている。(中略)つまりこの二人にも、いや、おそらく、この荒野の村にも、彼自身にも、あらゆる人々にも関係しているのだ。」

「過去というものは、次から次へと起きる出来事の途切れることのない連鎖によって、しっかりと現在と結び合わされている」

「そして、自分はたった今その両端を目にしたような気がする。一方の端がふるえると、もう一方の端がぴくりとふるえたのだ」

 

この「ぴくりとふるえる」感じ。つながって、関係して、連鎖している感じ。

それが、『いつか、この世界で起っていたこと』に収められている短編のすべてにある。

 

 

そして、チェホフが好きで嫌いな、アンナ・アフマートヴァの流儀も全編にある。

監獄の前に並ぶ女たちには、顔がない。感情を表に出すことで、国家権力からそこに不穏な意味を読みとられることを恐れて、仮面をかぶったような沈黙の集団となる。

ある日、列のなかで、一人の女が影のように近づき、アフマートヴァの耳もとでささやいた。

「あなたはこのありさまが書けますか?」

詩人は、

「できます」

と答えた。

すると、かつてその女の顔であった仮面の上を、微笑のようなものがかすめた。

                       (「チェホフの学校)より)

 

 

「泣く男」のラストもいい。 

大統領(ニクソン)は、彼(エルヴィス)を持てあましてしまった様子で、なかば逃げ腰に、こう言っている。

「なんだか変わった服装ですね?」

エルヴィスは答える。

「あなたにはあなたのショーが、私には私のショーがあるんです」

 

チェホフ+アフマートヴァ。

『三人姉妹』のような関節外しはない。

オリガが祈りを込めて、

「時が経って私たちが永久にこの世をあとにすれば、私たちのことは忘れ去られてしまうんだわ。でも、私たちが味わったこの苦しみは、私たちのあとから生まれてくる人たちの歓びに変わっていき、やがてこの地上に仕合せと平安が訪れるの。そのときには人々は今生きている私たちのことを感謝をこめて思い出し、きっと祝福してくださるわ。(中略)もう少し経てば、私たちが生きてきた意味も、苦しんできた意味もきっと分かるはず……」

その言葉への応答として呟かれる声が

軍医チェブトゥイキンのこの言葉

「どうでもいいさ! どうでもいいさ!」

 

黒川創は、おそらく、けっして「どうでもいいさ!」とは言わない人だと思う。