國分功一郎『中動態の世界』  メモ

なぜ「中動態」の本を読むのかと言えば、

「私」という「一人称」を森崎和江の問いがずっと、私の胸の奥深いところに刺さっているから。

 

妊娠出産をとおして思想的辺境を生きました。何よりもまず、一人称の不完全さと独善に苦しみました。(中略) ことばという文明の機能に重大な何かが欠け落ちている。それをどうにかしないと、私は生きられない、と、そう思いました。

 

一人称の不完全さと独善。by 森崎和江

 

「中動態」の世界を知ることは、

私たちが意識せずにそれを使って生きている<能動態>と<受動態>とが対立するものとして構成されている言語体系が、実はけっして普遍的ではないことを知ること。

森崎さん的に言えば、生きとし生けるすべての命にとって、不完全で独善的な一人称と結びついた言語体系を超える試み。

 

能動態⇔受動態を基本とする言語体系で構成される世界の、<外部>に思いを馳せてみること。

 

いったい、それはどんな世界なのか?

 

以下、『中動態の世界』からの抜き書き。

 

★もともとは、能動態と対立していたのは、中動態だった。

(受動態は、中動態から派生した。)

 

そして、能動態⇔受動態の世界と、能動態⇔中動態の世界は、まったく別物なのだということ。これが大事。

 

能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がそのとなるような過程を示している。(パンヴェニストによる定義 1966) p81

※出来事の「主体」ではなく、出来事の「座」というありかた。ここが大事。

 ここが、何よりも私の興味を惹く。

 

能動と受動の対立においては、する」かされるかが問題になる。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか、内にあるかが問題になる。(國分功一郎 p88)

 

◆パンヴェニストがあげる<能動態の例>

①「曲げる」「与える」  

  主体から発して、主体の外で完遂する過程

②「食べる」「飲む」   

  食べたり飲んだりしたものは、主語が占めている場所とは別のところに消える。

③「行く」「吹く」「流れる」

  その指し示す動作は、聞き手のあずかり知らぬところに及ぶ。動作が主語の占めている場所の外で完結。

④ 「生きる」「在る」  これについては、後述。

 

◆<中動態の例>

①「できあがる」 

  ものが出来上がる時、そのものは生成の過程にある。

②「欲する」「惚れ込む」「畏敬の念を抱く」

  誰かが何かを欲するのは、心の中から湧きおこる欲望ゆえのことであり、この欲望に突き動かされる過程の中に主語はある。 

③「希望する」

  人は希望しようと思って希望するのではない。不確かである未来に、しかも期待せざるをえないとき、主体をそのとして希望するという過程が発生する。

 

 

※しかし、一見、中動態に分類されそうな「生きる」「在る」も能動態。 

 なぜこれが能動態なのか?

「在る」(存在する)は、インド=ヨーロッパ語では、「行く」や「流れる」と同様、主体の関与が必要とされない過程なのである。(パンヴェニスト)

 

中動態と対立するところの能動態においては――こう言ってよければ――主体は蔑ろにされている。

「能動性」とは単に過程の出発点になるということであって、われわれがたとえば「主体性」といった言葉で想像するところの意味からは著しく乖離している。インド=ヨーロッパ語では、「存在する」も「生きる」も「主語から出発して、主語の外で完遂する過程」だったと考えられるのである。(國分功一郎) p91 

 

能動態と受動態の対立は「する」と「される」の対立であり、意志の概念を強く想起させるものであった。(中略) かつて存在した能動態と中動態の対立は「する」と「される」の対立とは異なった位相にある (中略) 

 そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない。

國分功一郎 p97)

 

「主体」が蔑ろにされている世界。あるいは、いたずらに「主体」が際立っていない世界。「意志」が問われない世界。出来事の一つの結節点(座)として主体が存在する世界。

 

ここから見える世界観は、実に興味深い。

 

さらにデリダを引用して、國分功一郎はこうも言う。

  おそらく哲学は、このような中動態、

  すなわちある種の非ー他動詞性をまず能動態と受動態へと振り分け、

  それを抑圧することで自らを構成したのである。

 

デリダは態をめぐる言語の変化が、哲学そのものと内在的に結びついている可能性に言及している。すなわち、言語と思考とが関係する可能性、中動態の抑圧がいまに至る哲学の起源にあるという可能性に言及している。

(中略)

 おそらく、いまに至るまでわれわれを支配している思考は、中動態の抑圧のもとに成立している。

 

さて國分功一郎が中動態をめぐって語るところでは、

私たちの知る<能動態⇔受動態>という概念の中枢には動詞がある。

ところが動詞は言語の中にずいぶんと遅れて登場したのだという。

そして、動詞はもともと行為者を指示していなかった。(ここ、大事 p170

 

たとえば、it rains       というような非人称構文こそが、動詞の最古の形態を伝える。

「動詞の諸形態は行為や状態を主語に結びつけるもの」という現在の考え方は、けっして普遍でもなんでもないということ。「私」に「一人称」という名称が与えられているからといって、人称が「私」から始まったわけではない。「私」(一人称)が「あなた」(二人称)へと向かい、さらにそこから、不在の者(三人称)へと広がっていくイメージはこの名称がもたらした誤解である。 

 

★言語は、出来事を描写する言語から、行為者を確定する言語へと移り変わってきた。

能動と受動を対立させる言語は、行為にかかわる複数の要素にとっての共有財産とでもいうべきこの過程を、もっぱら私の行為として、すなわち私に帰属するものとして記述する。やや大袈裟に、出来事を私有化すると言ってもよい。「する」か「される」かで考える言語、能動態と受動態を対立させる言語は、ただ「この行為は誰の者か?」と問う。

 ならば次のように言えよう。中動態が失われ、能動態が受動態に対立するようになったときに現われたのは、単に行為者を確定するだけではない。行為を行為者に帰属させる、そのような言語であったのだと。出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行――そのような流れを一つの大きな変化の歴史として考えてみることができる。 p176

 

 一方、「出来事」を中心に考えるのならば、

出来事は能動的でも受動的でもない。

出来事に先立って、主語はない。

出来事こそが言語を可能にする。

そして、その出来事を最初に名指すのが動詞である。

(そして、その動詞とは、そもそもは能動でも受動でもなく、中動だったのだろう。主体は出来事の内にあるのだから。)

 

これは能動態と受動態に支配された言語を疑った哲学者のひとりであるドゥルーズの思考を、國分功一郎が簡潔な言葉でまとめているもの。

(ほかにもハイデッガーアレントについて國分功一郎は触れている)

 

そして、中動態を考えるにあたって最重要なのが、スピノザ。なぜなら、スピノザの構想する世界は中動態だけがある世界だから。

 

①あらゆるものは神の一部であり、また神の内にある。

 

②神とはこの宇宙、あるいは自然そのものに他ならない。「神即自然」。

 神すなわち自然という実体がさまざまな性質や形態を帯びることで個物が現われる。

 神すなわち万物の原因である。

 

つまり

★ 神に他動詞はない。

  (神が何事かを働きかける他者はこの世界には存在しない。)

 

★ 神に受動はありえない。

  (神には外側はない。外側がない以上、神に影響や刺激を与えるものはない)

 

★ 完全に能動たりうるのは神のみである。

 

★ 神という唯一の「実体」の変状の結果としての「様態/個物」がある。

  (人も石ころも樹木も神の態様の一つ)

 

★ 個物は互いに影響し合い、刺激し合い、変状する。

  だが、そこには、私たちの知る<能動―受動>の関係性はない。

スピノザの考える因果性、中動態において捉えられた因果性の概念においては、原因は結果において自らを表現するのだった。ならば、われわれが自閉的・内向的と呼んだ中動態的な変状の過程も、この因果性によって説明できるはずだ。すなわち、この因果性の概念によるならば、欲望の結果として現れる行為や思考は、その原因である力としての本質を本質を表現していることになる。

 

(中略)

 われわれの変状がわれわれの本質によって説明できるとき、すなわち、われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。

 

(中略)

 

 一般には能動と受動は行為の方向として考えられている。行為の矢印が自分から発していれば能動であり、行為の矢印が自分に向いていれば受動だというのがその一般的なイメージであろう。それに対しスピノザは、能動と受動を、方向ではなく質の差として考えた。

 

そして、中動態の世界における<能動>と<受動>を、スピノザの哲学ではこう言い換えられている。

 

<自由>と<強制>

「自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である」

「強制されているとは、一定の様式において存在し、作用するように他から決定されていることを言う」

 

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さて、

私が「中動態」の世界を想う時、

そこには「語り」の世界がある。

「声」が開く場がある。

「場」の声としての「語り」がある。

脈々とつらなる命の世界の声としての「語り」がある。

能動と受動、所有の一人称、支配の一人称が起動する世界に「穴」をあける声としての「語り」がある。

 

中動態。

キイワードは「出来事」。

支配と強制からの自由。

 

キリスト教を踏まえつつ、神すなわち自然という世界観から語られる、

その意味では、すべての存在が、この世界という「出来事」を織りなし、脈々ととながっている、スピノザ的世界とその「中動態」は、ストンとおちてくる。

出来事の世界に生きる者にとっての「自由」。それもストンとおちてくる。

それは私的所有をする者、支配をする者の自由とは異なる。

支配される者の奴隷の自由とも異なる。

ましてや、新自由主義の自由などでもない。

命がその本質を表現しうること。

つまりは、命が命として尊ばれること、「自由」な命のありようを基本とすること。

 

われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ。

國分功一郎  p263)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベンヤミン「新しい天使」    メモ

――これから進む道のための書き抜き――

 

瓦礫

 

「新しい天使」と題されたクレーの絵がある。そこには一人の天使が描かれていて、その姿は、じっと見つめている何かから今にも遠ざかろうとしているかのようだ。その眼はかっと開き、口は開いていて、翼は広げられている。歴史の天使は、このような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去へ向けている。私たちには出来事の連鎖が見えるところに、彼はひたすら破局だけを見るのだ。その破局は、瓦礫の上に瓦礫をひっきりなしに積み重ね、それを彼の足元に投げつけている。彼はきっと、なろうことならそこに留まり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。だが、楽園からは嵐が吹きつけていて、その風が彼の翼に孕まれている。しかも、嵐のあまりの激しさに、天使はもう翼を閉じることができない。この嵐が 彼を、彼が背を向けている未来へと抗いがたく追い立てていき、そのあいだにも彼の眼の前では、瓦礫が積み上がって天にも届かんばかりだ。私たちが進歩と呼んでいるのは、この嵐である。 (ベンヤミン「歴史の概念について」)

 

 

天使の儚い歌

タルムードの伝説によるなら、天使たちは瞬間ごとに無数の群れとして新たに創造され、神の前で讃歌を歌い終えると、静まって無の中へと消え去ってしまうのだ。

ベンヤミン

 

 

記憶する言葉

人類を世界戦争の破局へと駆り立てる「進歩」の「嵐」に必死で抗いながら、過去へ眼差しを向け、破局としての歴史を凝視する「歴史に天使」。この天使は瓦礫を拾い上げながら、名もなき死者たちの一人ひとりを、またこの死者たちが経験した出来事の一つひとつを、それ自身の名で呼び出し、その記憶を呼び覚まそうとする。しかも、そのような天使の身振りは、言語そのものを、名を呼ぶことから捉え返すベンヤミン言語哲学の核心を具現させてもいるのだ。 

 

中略

 

ベンヤミンは『パサージュ論』のための草稿のなかで、「歴史を書く」とは既成の支配的な歴史を破壊する仕方で「歴史を引用することである」と述べている。それによって一つの「像」のうちに死者の生きた出来事が、まさに生きられた出来事として呼び出されるのである。

 

中略

 

そのためにはまず、記憶する言葉、すなわちベンヤミンが「像」と呼ぶ、生きられた出来事がまさにそこに甦ってくる媒体としての言語を取り戻さなければならないはずである。そのような言葉は、ベンヤミンが語る天使の歌にもむすびつけられうる仕方で歌う言葉、日常言語にとって破壊的ですらあるような強度をもって語られる詩的な言葉でありうるだろう。

 

中略

 

詩的な言語が抑圧され続けるなかに生きることが、今や新たな戦争を続けている権力の「道具」になることと結びつきつつあるとするならば、「抑圧された者たち」、すなわち「数」として死ぬことを強いられたうえに「歴史」によって忘却されてきた死者たちの一人ひとりに応える記憶の媒体となりうる言葉を語る可能性を、またそれを受け止める文化の可能性を、今ここに切り開こうと試みるべきではないだろか。

        (『忘却の記憶 広島』所収 柿木伸之「記憶する言葉へ」より)

 

 

マンデリシターム 詩

詩――それは時間の地層の深部、その黒土が地表に現われるよう、時間を掘り起こす鋤である。

 

 

「記憶のケア」 川本隆史が提唱する概念  メモ 

記憶の継承、共有、伝承のために。

 

広島出身の川本隆史は、固定化された記憶と言う意味での、いわゆる「原爆神話」のゆがみや欠落を丁寧に見直す作業を通じて、固定観念へと凝固した「記憶」をほぐしつつ、共通の認識に向かって歩むことを考えた。

そして、そうした営みを「記憶のケア」と呼んだ。

 

※たとえば、被ばく一世の「記憶」からは、中国大陸・朝鮮半島出身の被爆者の存在が欠落しがち。

 

※あるいは、原爆を一種の天災のように受けとめ、アジアへの侵略加害責任が棚上げされてきた。

 

[「記憶のケア」を通して「記憶の共有」を目指すための3つの手立て]

① 名前と身体をもつ一人ひとりの個人とそのつながりから出発すること

 

② 記憶の弁証法  これはたとえば、被爆の「被害者」としての記憶と、戦争加害と植民地支配を支えていた「加害者」としての記憶が一人の人間の身体に刻み込まれている、その者が、「語りながら調べ、調べながら語ることにより、語る自分(とその記憶)が変わっていくプロセスを指す。

 

③ 対立・競合する複数の記憶の中から、価値についての「部分的に重なり合う合意」を探り当て、それを積み上げる。

 これはたとえば、原爆をめぐるさまざまな価値判断があるなかで、「戦争または紛争時でも非戦闘員を殺してはいけない」という原則をどの立場からも「重なり合う合意」として、記憶のケアの出発点とする、というような。

 

以上が、川本隆史が「記憶のケア」を着想したときの出発点。

 

 

[次なるプロセス]

 

東日本大震災の経験。

 「瓦礫」という括られ方への被災当事者の違和感に触れる。

 

石原吉郎の「広島告発」批判とそれへの応答としての栗原貞子「知って下さい、ヒロシマを」をめぐる考察

 

栗原貞子「知って下さい、ヒロシマを」の一部

一人の死を無視するが故に/数を告発するヒロシマを/にくむ という 詩人Yよ/ヒロシマナガサキの三十万は/日本人だけでなく、/強制連行された朝鮮人や/中国人の捕虜、東南アジアの留学生も、/異国の戦争に捲きこまれ/焼けただれて死んだことを/知って下さい。

 

一人の死を無視する数のヒロシマを/にくむという詩人Yよ/あなたなは なぜ問わないのです/陸や海、空や宇宙にまで/核を配備して 世界中の 赤ん坊や/としよりにいたるまで/みなごろしにする大国の/人間の顔をした死の神々を/もう時間はない/ゼロアワーまで三分しかない

 

「脱集計化」「脱中心化」というキイワード、その企図。

 

◆脱集計化アマルティア・セン の手法にヒントを得る。

脱集計化とは、概念というよりも、問題にアプロ―チする際の構え方である。センによれば、これまでの開発経済学は、富と貧困の指標として、国民生産や総所得、総供給といった集計化されたデータに関心を集中しすぎる傾向があった。…中略…究極的に重要なのは、具体的な顔をもつ個人の福祉の増進である。しかし、そこまで一挙に脱集計化を進めると経済分析としては意味をなさない。そこでセンは、個人と国家のあいだのさまざまな中間項に注目する。すなわち、一国の経済が困難に直面する場合、それが地域、所得階層、職業集団、性別、年齢の違いに応じて人々に不均等に打撃を与えていくプロセスを、できる限り丁寧に検証しようとするのである。

 

◆脱中心化

「内側」から囁かれる何かを「外側」から受け取り、そしてもっと「外側」の誰かへ伝えようとする――”当事者性の「脱中心化」とは、こうしたたゆまぬ努力の謂いなのです。

 

※たとえば、こうの史代この世界の片隅に』に、川本隆史は「脱集計化」と「脱中心化」を見出す。

 

 

 ◆さらに、川本隆史は、「原爆神話のような記憶から、パーソナルな「記憶のケア」へと歩を進める。

 

川本さん曰く、

大塚茂樹さんが丹念に集録した地域史『原爆にも部落差別にも負けなかった人びと――広島・小さな町の戦後史』(かもがわ出版)も、私の「記憶のケア」を強く促します。…中略…同書に活写されている被爆と差別の実態や息の長い住民運動に関して、乏しい記憶しか残っていない私に深い反省を強いる内容でした。大塚さんの本を精読するうちに思い起こしたのは、「哲学者の仕事は、一定の目的に向かって諸々の記憶を織り上げることだ」というウィトゲンシュタイン箴言です。「記憶のケア」とは、「脱集計化」と「脱中心化」を縦横に組み合わせつつ「一定の目的に向かって諸々の記憶を織り上げる」骨折り仕事以外の何ものでもありません。

 

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この「記憶のケア」という方法論、概念を、当事者から非当事者へと記憶を受け渡していくときに、意識して用いていくことを考えている。

 

それは、数か月前に意図せずしてはじめた<『気仙沼リアスアーク美術館「被災物」展示』プロジェクト>への関わり方についてのより深い思考へとつながっていく。

「被災物」の前に立った非当事者が、自身の「被災物」の物語を立ち上げてゆく、という試み。

 

① 震災の記憶を宿した「被災物」がある。

(生活を共にした「物」は記憶の器でもある。被災者の記憶と被災物の記憶は分かちがたくそこにある。)

 

② その「被災物」(たとえば、それがミシンだとする)の前に立つ非当事者A(非被災者)が、みずからの「ミシン」にまつわる記憶を思い起こす。

 

③ みずからの「ミシン」をめぐる物語がそこにおのずと立ち上がる、その「物語」は「被災者自身の被災物の記憶」と重なり合う形で、そこにある。

 

④ 被災物の記憶を介して、被災者の記憶が非被災者に転移していく回路が開ける。

 

⑤ 非当事者Aが、被災物(ミシン)の前で想起した自身の「ミシンの物語」を語る時、その背後に存在する「被災の記憶」を忘れることはできない。

 

⑥ その物語は、さらに、B、C、D、と「被災の記憶」が転移(継承)していく回路となるだろう。こうして、記憶の継承、共有、伝承の網の目が作られていくことだろう。

 

写真の説明はありません。

 

 

森鴎外『山椒大夫』  気になる枝葉の言葉  メモ

① 信者

向うから空桶からおけかついで来る女がある。塩浜から帰る潮汲しおくみ女である。
 それに女中が声をかけた。「もしもし。この辺に旅の宿をする家はありませんか」
 潮汲み女は足をめて、主従四人の群れを見渡した。そしてこう言った。「まあ、お気の毒な。あいにくなところで日が暮れますね。この土地には旅の人を留めて上げる所は一軒もありません」
 女中が言った。「それは本当ですか。どうしてそんなに人気じんきが悪いのでしょう」
 二人の子供は、はずんで来る対話の調子を気にして、潮汲み女のそばへ寄ったので、女中と三人で女を取り巻いた形になった。
 潮汲み女は言った。「いいえ。信者が多くて人気のいい土地です国守くにのかみおきてからしかたがありません。もうあそこに」と言いさして、女は今来た道を指さした。「もうあそこに見えていますが、あの橋までおいでなさると高札たかふだが立っています。それにくわしく書いてあるそうですが、近ごろ悪い人買いがこの辺を立ち廻ります。それで旅人に宿を貸して足を留めさせたものにはおとがめがあります。あたり七軒巻添えになるそうです」 

 

信者と関連があるのだろうか。人買い山岡は数珠を手にしている。

はいって来たのは四十歳ばかりの男である。骨組みのたくましい、筋肉が一つびとつ肌の上から数えられるほど、脂肪の少い人で、牙彫げぼりの人形のような顔にみをたたえて、手に数珠ずずを持っている。我が家を歩くような、慣れた歩きつきをして、親子のひそんでいるところへ進み寄った。そして親子の座席にしている材木の端に腰をかけた。

 

※ここで言う信者は、浄土真宗の信者だろう。

 (鴎外にとっては、説明するまでもないことだった?)

 

ちなみに、佐渡から来た人買いはこう言う。

 

母親は佐渡に言った。「同じ道を漕いで行って、同じ港に着くのでございましょうね」
 佐渡と宮崎とは顔を見合わせて、声を立てて笑った。そして佐渡が言った。「乗る舟は弘誓ぐぜいの舟、着くは同じ彼岸かのきしと、蓮華峰寺れんげぶじ和尚おしょうが言うたげな」

 

※弘誓の舟:仏語。衆生救済の誓いによって仏・菩薩 (ぼさつ) が悟りの彼岸に導くことを、船が人を乗せて海を渡すのにたとえた語。誓いの船。

 

※蓮華峰寺は佐渡真言宗の寺。 仏教用語が、恐ろしい言葉に変換されている。

 

② 安寿と厨子王の母の受動性

 

荒川にかけ渡した応化橋おうげのはしたもとに一群れは来た。潮汲み女の言った通りに、新しい高札が立っている。書いてある国守の掟も、女のことばにたがわない。
 人買いが立ち廻るなら、その人買いの詮議せんぎをしたらよさそうなものである。旅人に足を留めさせまいとして、行き暮れたものを路頭に迷わせるような掟を、国守はなぜ定めたものか。ふつつかな世話の焼きようである。しかし昔の人の目には掟である。子供らの母はただそういう掟のある土地に来合わせた運命をなげくだけで、掟の善悪よしあしは思わない。

 

子供らの母は最初に宿を借ることを許してから、主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢いになった。掟を破ってまで宿を貸してくれたのを、ありがたくは思っても、何事によらず言うがままになるほど、大夫を信じてはいない。こういう勢いになったのは、大夫の詞に人を押しつける強みがあって、母親はそれにあらがうことが出来ぬからである。その抗うことの出来ぬのは、どこか恐ろしいところがあるからである。しかし母親は自分が大夫を恐れているとは思っていない。自分の心がはっきりわかっていない。

 

この項、つづく。

 

8月6日 原民喜の詩を読む    黙祷

碑銘

遠き日の石に刻み
    砂に影おち
崩れ墜つ 天地のまなか
一輪の花の幻

 




風景

水のなかに火が燃え
夕靄のしめりのなかに火が燃え
枯木のなかに火が燃え
歩いてゆく星が一つ


 

悲歌

濠端の柳にはや緑さしぐみ
雨靄につつまれて頬笑む空の下

水ははつきりと たたずまひ
私のなかに悲歌をもとめる

すべての別離がさりげなく とりかはされ
すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ
祝福がまだ ほのぼのと向に見えてゐるやうに

私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに

「場」をめぐるメモ

イメージの水底へ降りる、と今福さんは言った。

(きのう「原写真論」の刊行記念トークを聞きに京都まで行ってきたのだ)

(そうか、やはり、水なんだな)

 

言語的な限界をイメージで突破できないか、とも今福さんは言った。

(言語は言語であること自体に、既に限界があるのだな)

 

言語的な限界を言語で突破しようと、

言葉に言葉を重ねるほどに、

論理に論理を積み重ねていくほどに、

言語はみずからどんどん限界の中へと押し込まれていくものなのだ。

 

言語的な限界を突破するには、水のように、風のように、脈々とながれゆくものとしての言語を感じること。

 

言語をわがものとして所有しないこと。

(イメージもまた、わがものとして所有しないこと)

(所有、とは近代文明の狭量で傲慢で強欲な仕組みであることを忘れぬこと)

(なにかを所有する存在としての「私」という主語を捨てること)

思うに、言語は自他の境を超えたところを流れる水であり、風であるべきなのだ。

 

たとえば、私はここで「言語」と言いつつ、誰のものでもない(それゆえに誰のものでもある)「物語」のことを思っている、

「物語」が語られる「場」のことを思っている。

「場」とは、「泉」なのだなとも思っている。

「泉」、イメージの水底から湧きいずるものとしての「場」

 

イメージの水底には、「原写真」があり、「原物語」がある。

「原写真」「原物語」は主語を持たない。

 

「私」のものではないものを、私の声で語る。物語。そのことをずっと考えている。

 

そう考える私は、「私」という主語が問題だと繰り返し語った森崎和江の声を身に沁み込ませている。

 

「中動態はアナキズム」と言った栗原康の言葉も思い起こしている。

文明以前には、動物や自然を所有するという発想はありえなかった。

能動態を土台とした認識の枠組み。それがものがたっているのはなにか。支配だ。ものごとを主人と奴隷の関係でとらえるということだ。主人の欲望を生きるということだ。主体(subject)であるあなたが、わたしを対象(object)として把握する。

(『サボる哲学』より)

 

「場」を開くこと、

強欲な世界の岩盤に「穴」を穿ち 湧きいずる泉のまわりに集うこと、

誰のものでもないけれど、同時に私の体から湧きいずる水の声で語ること

誰のものでもないけれど、同時に私の体から生まれいずる風の声で歌うこと、

 

そういうことを、ずっと考えている

言葉は ぽつり ぽつり

泉から湧き出る 水のしずくのように

ぽつり ぽつりと 石を穿ち、岩を砕き、

忘れられた地下水脈をめざして降りてゆく 水のしずくのように

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メモ「祭文」について。 (復習)

祭文とは、祈願・祝呪・讃歎の心を神や仏にたてまつる詞章。

そもそもは陰陽道系の呪詞、神・仏・儒のいずれでも用いられた。

 

平安時代中期以降に、信仰とは関連の薄い「祭文」がつくられる。

神事・仏事の俗化とともに、「祭文」も俗化してゆく。

祭文俗化の担い手は山伏。

娯楽本位の「もじり祭文」の登場 → 「歌祭文」へ。

 

祭文 此山伏の所作祭文とていふを聞けば、神道かと思えば仏道、とかく其本拠さだかならず、(中略) 多く誤あれども知らぬが浮世なり。それさへあるを江戸祭文といふは白声(しゃがれ声)にして力見を第一として歌浄瑠璃のせずといふ事なし。かかる事を錫杖にのせるはさても悲し、勿体なし (『人倫訓蒙図彙』七 1690) 

 

元禄期(1688年―1704年)には完全な大道芸。「祭文語り」と称する山伏の格好をした芸人が、江戸時代には盛んに門付けをして各地を回る。錫杖、金杖、法螺貝等を携えて。

 

俗化し、芸能化しても、語りの形式は祭文の型をふむ。

最初に、たとえば、「抑はらひ清めたてまつる」「抑勧請下ろしたてまつる」

末尾に、たとえば、「その身は息災延命諸願成就皆令満足敬って白す」

 

『摂陽奇観』(1818~)には、薩摩派説経祭文と同様、三味線の入った歌祭文が記録されている。

歌祭文の事 生玉の境内賑はしかりし頃は、ここに名代の歌祭文とて葦簀囲ひのうちに床を設け、一人は錫杖をふり一人は三絃を鳴らして祭文を語る。