説経祭文「信徳丸」の春日大明神の謎が解けた。

今日は、ピヨピヨ団とともに、大阪は八尾の恩智、茶吉庵を訪ねた。

 

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HPには、
「ほんまもん」のアートが集まる 築250年の古民家、とある。
https://chakichian.co.jp/

 

19代目当主の萩原さんから恩智という土地の歴史(話は物部氏の頃からの反骨の物語としてはじまる)、
恩智における萩原家の歴史(池田三成の家臣。関ケ原後、恩知に逃げのびて、以来400年余。しかし、この土地では、400年くらいではまだ新参者なのだという……)、
そして、萩原さん自身の反骨精神に満ちた現在進行形の挑戦の物語を伺った。
茶吉庵は、とても気持ちのいい場所。

 

ここで何かを企もうとピヨピヨ団一同。

 

 

茶吉庵訪問前に、周辺地探訪。恩智神社を覗いた。
まず、もともと恩智神社のあった場所(天王の森)に、いまは小さな祇園さん(牛頭天王社)がある。

 

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そこから坂をずっと上っていくと、現在の恩智神社。建武年間に現在地に移ったという。

 

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アウトドアの画像のようです

          

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 アウトドアの画像のようです f:id:omma:20210914203723p:plain

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ここはもともとは、天児屋根命(通称 春日大明神)が常陸の国香取神宮から勧請され、それが枚岡神社春日大社へと勧請されていったいったのだという。(by宮司

 

現在、天児屋根命は境内の摂社に祭られている。(境内には、いろんな神社の分社もたくさん)。

それで、つまり、ここは、元春日社.。春日大社のおおもとの神社、というわけです。

 

そのことが興味深いのは、
説経祭文「信徳丸」では、継母が信徳丸に呪いをかけるために、高安から春日大明神へと深夜に祈願に行くのだけど、
高安から奈良の春日大社まで、女の足で行ったのか? と常々疑問に思っていたのだが、なるほど、ここなんだ、恩智の春日さんなんだ! と合点がいった。

 

しかも、説経祭文では信徳丸は天王原に捨てられる。(説経では四天王寺)。

恩智を歩けば、わかる。春日さんのすぐ下に天王森があるじゃないか!

さらに、聞けば、ここは河内木綿の産地で、小作人ですら蔵のある屋敷を構えていたという土地柄。芸能を支える冨や旦那衆いたんですね、きっと。

茶吉庵を訪ねるために、たまたまやってきた恩智で、思いがけなく長年の信徳丸をめぐる謎が解けたこの爽快感よ!!!

 

そういえば、茶吉庵19代目の話では、木綿の先物取引でみんなお金を持っていたから、八尾では賭博がさかんで、その胴元がお寺だったという……。

 

さて、恩智神社は別名卯辰の社。
うさぎと龍が神のお使いなんだそうです。
なので、狛犬代わりに、うさぎと龍。

卯は「東」を意味する。太陽ののぼる方角。
龍は水の神。水分(みくまり)の神。

このあたりは渡来人が上陸して、最初に集落を作っていったところで、

上陸地に住吉大社、住吉から見て朝日の昇る方角に恩智。

春分の日に住吉の浜から真東を眺めやれば、まさに恩智から日が昇る。

それを遥拝したのだという。太陽信仰。

だから、卯=東、なのでしょうね。

 

ジェイムズ・クリフォード『リターンズ 二十一世紀に先住民になること』 メモ

締切前だというのに、うっかりこの本の第二部「イシの物語」を読みはじめて、やめられなくなってしまった。

 

「最後のヤヒ イシ」をめぐる物語だ。

そもそも、イシとは、1911年8月29日に北カリフォルニアの小さな町オロヴィㇽで保護された先住民「ヤヒ」の最後の一人。イシは本名ではない。本当の名はわからない。

イシはカリフォルニア大学人類学博物館に守衛として雇われ、住み込みで働くようになり、ヤヒの技術の実演もしてみせた。彼は1916年に結核で亡くなり、遺体は解剖され、その脳はスミソニアン博物館に送られた。

イシと、カリフォルニア大学の人類学者アルフレッド・クローバーとその仲間たちとは友情で結ばれていた、という。

 

さて、20世紀初頭、消滅する運命とされていた先住民は、21世紀の今、新たな生存戦略を繰り広げ、(アイデンティティの再生、伝統文化の観光化、先住民カジノまである……)、そして、21世紀の先住民は、「イシの物語」を、先住民の再生の物語として語りなおしてゆく。

かつては先住民の死の象徴だったイシの四散した遺骨を取り戻すこと、イシの帰還は、21世紀の先住民の活力、再生の象徴となる。

 

「イシの物語」は、最後の先住民の物語ではなく、最初の先住民の物語へと読み替えられる。

 

ところで、そもそも、イシを「ヤヒ」という部族の名で呼んだのは白人だ。

カリフォルニアの「部族」は二十世紀の初期に形作られた。それまで先住民カリフォルニアは、強力な地方性を帯びるとともに、地球上でもっとも言語に富んだ地域であった。(その言語地図が人類学者らによって作られた)あらゆる地図がそうであるように、この地図もまた特定の現実を投影していた。くっきりした境界線によって、社会文化的な単位に正確に合致しない言語や方言は消去されていた。現地の諸社会は実際には多孔質であり、交易、親族関係、多言語使用、間部族的集会などによって横断されていた。しかも、言語によって定義された領域の内部には、ときに多くの方言があり、互いに非常に理解が困難なものも存在していた。イシの時代には、人々はコミュニティを区別するのに、「われわれはヤナだ」とか「われわれはカロックだ」などと言うよりも、現地の地名や族長の名前を用いていた。言語と文化をイコールでつなぐ一般的な習慣は、より複雑な様々な帰属関係を単純化しすぎている。(中略) しかし、地図が完成してからは、こうしたどちらかというと流動的な集団区分は固定化され、政府から課された「部族」認知の政治のなかで機能させようとする、強い圧力のなかで制度化されてきた。

 

⇑の話は、21世紀のいま、イシの遺骨が帰還するべき先住民がどの部族なのか、という問いにおいて、浮上してきた問題。

 

さて、クリフォードが差し出す数多くの論点をほとんど端折って、ル=グインを介してクリフォードの語る先住民の眼差す「ユートピア」のこと。

 

植民地化の後に「先住民」になること。変容した場所で伝統的な未来を作りなしてゆくこと――このようなプロセスはル=グインの非単線的なユートピアの実例となっている。

 

ル=グインの鋭い読み手であるフレドリック・ジェイムソンは、資本主義的な物象化の世界におけるユートピアの必要性を繰り返し語っている。オルターナティヴな展望は、与えられた現実を超えて、不可避で自然なもののように見える「現実」の外で考え、感じるための道具である。ユートピアは様々に異なった形をとる――それは万人にとっての遠い未来や次に必要なステップに言及する必要はない。最近のイシの物語の再開は、現在存在し、現れつつある「先住民主義」の諸空間に依存している――ユートピア的な、あるいはおそらくヘテロトピア(別の場所)的な諸現実である。消えゆく定めにあると想定されていた人々や歴史は、日に日に生きたものとなっている――前に、横に、そして後ろへと動き、進歩の単線的な観念を侵犯している。先住民の――古いと同時に新しい――出現しつつある諸空間は、縺れ合い、折衷的で、思いがけない複数の歴史によって構成されている。

 

そして、クロノトープという概念。

 

彼の物語は単に一人の男の物語であったことはない。イシが知られるようになった時点から、彼は神話だった。(中略)

ここではミハイル・バフチンの提唱する「クロノトープ(時空関係)という概念が示唆的かもしれない。ひとつの語りが一貫性の感覚をもって展開されるためには、それがどこかで「生起する/場所を持つ」必要がある。この空間的枠組みは、時間の流れを封じ込め、調整するひとつの方法である。イシの物語がそのなかで最初に語られた時間/空間、すなわちその歴史的「現実性」は、目的性を備えたひとつの場所である、博物館というクロノトープだった。この設定は、彼が公的生活を送ったサンフランシスコの人類学博物館事態にとどまらず、価値があるとされた記憶やモノが集められ、決して逆戻りすることのなくひたすら前進する単線的進歩から救出される場所としての「博物館」であった。保存する価値のある事物の終の棲家としての博物館は、最後の行先である――したがって、それは不動性と死に結びつく。

 

(中略)

 

今日では、このクロノトープはもはやイシの物語を閉じ込めてはいない。じっさい、博物館はいたるところで、文化財返還要求、帰還事業、マーケティング、商業化などの圧力のもとで、流動的で不安定、かつ創造的な「接触地帯」になっている。

(中略)

イシの物語はいま、救出された過去についての物語であるのと同じくらい、先住民の複数の未来についての物語である。そもそも、「進歩的」変遷を調整していた過去と未来のとの対立全体が、部族再生の文脈のなかで揺れ動いている。時間は循環的な、系譜的な、螺旋状のものとして経験されている――終わりなき帰還というクロノトープである。

 

 

この部分を読む私は、たとえば、石牟礼道子苦海浄土』をいかに複数の未来についての物語として読むか、というふうに考える。

たとえば、気仙沼リアスアーク美術館に展示されている「被災物」の記憶、震災の物語を、いかに複数の未来についての物語へと編み直すか、ということも考えている。

 

「二十一世紀のカリフォルニアで、新たな仕方で先住民になることは、インディアンの差し迫ったプロジェクトである。維持するべきもの、要求されるべきもの、再生されるべきものはたくさんある」とクリフォードは書く。

 

この言葉は、先住民が「先住民」」になること以上に、

この地球上に生きる私たちみなが「先住民」になるというプロジェクトを語っているものなのだと受け取りたい。

いかにして、単線系の進歩の時間を超えて生きるのか、と。

 

そして、クリフォードがよく引用する、アラスカの先住民アルーティクの長老が語ったという ⇓ の言葉は、

津波もまた暮らしの中に織り込んで生き抜いてきた三陸の風土を思い起こさせもする。

自然災害の津波だけでなく、人為的災害(もしくは近代の災禍)である「復興」に襲われている三陸も。

 

我々の民は、何千年ものあいだ、幾多の嵐や災害を生き抜いてきました。ロシア人以降のあらゆる苦難は、一続きの悪天候のようなものです。他のあらゆるものと同じで、この嵐もまたいつの日か過ぎ去ってゆくでしょう。

              ――バーバラ・シャンギン、アルティークの長老、

                       チグニク・レイク、一九八七

 

クリフォードはこの言葉について、以下のように語って『リターンズ』を締めくくっている。

 

彼女の言葉は先住民の未来について答えようのない問い(こんな悪天候の後になにがやってくるのか?)を繰り返している。ひとつの問いを、そしてまたひとつの希望、何があろうとも姿を現す、ひとつの希望を。

 

 

 

復習  植民地期韓国の童謡運動 概略

童謡「半月」に寄せて。

 

   作詞・作曲 尹克栄

푸른 하늘 은하수 하얀 쪽배에
계수나무 한 나무 토끼 한 마리
돛대도 아니 달고 삿대도 없이
가기도 잘도 간다 서쪽 나라로

은하수를 건너서 구름 나라로
구름 나라 지나선 어디로 가나
멀리서 반짝반짝 비치이는 건
샛별이 등대란다 길을 찾아라

 

[映画「マルモイ」と童謡「半月」]

 

 

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以下、『30年代 童謡選集』解説より

 

「月の上でうさぎが桂の木の下で餅つきをするなどというのは、もう昔話になってしまった」現代から、植民地期の童謡を振り返る。

 

1920年代から光復まで歌われた韓国の童謡は、子どもが歌って遊んで楽しむものであっただけではなく、帝国主義強占期にあって民族の抵抗を鼓吹する手段でもあった。

 

当時の音楽状況といえば、日本式教育による唱歌などの普及により、日本の流行歌が流れはじめ、その一方で西洋音楽の導入により新式音楽が流行した。


(日本でもそうであったが、新しい音楽はまずは子どもたちが教育によって西洋音階を身につけることからはじまっている。日本においては唱歌を歌う子どもたちは、そのまま軍歌を歌う兵隊へと育ってゆく。もちろん流行歌も歌う。植民地期韓国での日本式唱歌教育はすでに大韓帝国保護国化した1905年以降から少しずつ始まっている。日本の学校唱歌が韓国語に翻訳されて、韓国の学校教育において教材として用いられた。1910年5月には、日本の学校唱歌をそのまま韓国語にして収めた「普通学校唱歌集」が出版されている。例えば、その一つに「蝶々」のような今でも日本でも韓国でも歌われる「唱歌」がある。)

 

youtu.be

 


※1910年5月といえば、これはまだ日韓併合前、保護国段階でのこと。

 

そのなかで、1920年代に、今も歌い継がれている「半月」、「故郷の春」「鳳仙花」のような童謡が、韓国人による創作童謡として生まれてくる。

そこには「半月」(1924)を作詞作曲した尹克栄(1903~1988)の活動がある。

 

1923年3月京城で、방정환(방정환(方定煥)を編集人として、月刊誌「어린이」創刊。

 

方定煥は天道教(東学思想の組織。3・1独立宣言に参加)の少年会で活動をしていた。

雑誌「어린이」は天道教少年会の機関誌として発行され、童謡・童話・児童劇脚本等が掲載され、毎月一つずつ、創作童謡が発表された。

雑誌「어린이」からは多くの童謡作家、童話作家が誕生した。1934年廃刊。

 

1923年5月1日、東京で、방정환(방정환(方定煥)が提唱する子ども文化運動の組織としてセクトン会」が組織され、そこに尹克栄も創立メンバーとして参加。

 

方定煥が1923年のある日、東京留学中の尹克栄を訪ねてきたのだという。尹克栄は方定煥との出会いにより、朝鮮の子どものための朝鮮の歌という思いを抱くようになる。

 

彼らは、朝鮮の子どもたちに、朝鮮の言葉、朝鮮の調べ、朝鮮の情緒をと、文化運動を繰り広げた。

 

尹克栄は、関東大震災の翌年の1924年京城に戻っている。

父親の助力で自宅敷地内に「一聲堂」という別棟が造られ、尹克栄はそこで実際に子どもたちに指導し、童謡を普及する活動をする。その活動母体としての「ダリア会」も組織(1924年8月)。

 

尹克栄の童謡創作の本格的な試みはこの時期に始まり、「半月」は1924年東亜日報に発表されている。

 

1926年にはダリア会の子どもらが歌う「半月」が収められた童謡レコードも発売されている。

(ちなみに、朝鮮で初めてSP盤が発売されたのが1925年のこと。京城放送局の開局も同年)。

 

 

자신이 만든 노래들을 당국의 감시를 피해 등사판으로 몰래 찍어 초등학교 교사들에게 보냈다. 이 노래들은 순식간에 전국으로 퍼져나가 어린이들이 즐겨 부르게 됐고 총독부도 이를 막을 수 없었다.

 

(尹克栄は)自身が作った歌を当局の監視の目を盗んで謄写版でひそかに印刷し、初等学校の教師たちに送った。歌はあっという間に全国に広がり、子どもたちが喜んで歌い、総督府もこれを遮ることはできなかった。

                     (聯合ニュース 2017年10月2日) 

 

※映画 「말모이」の挿入歌に「 반달」が流れる。そのことの意味がここにある。

 

 

 

 

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雑誌「어린이」誕生の背景には、日本の童謡運動の揺籃となった『赤い鳥』(1918~
1929年休刊、1936年廃刊)の存在がある。

 

『赤い鳥』は北原白秋の協力を得て、鈴木三重吉にとって創刊された。

 

 

 

 

 

 

 

 

安藤昌益の「猫」あるいは「炉」

最近、毎月勉強会に参加して、少しずつ読んでいる安藤昌益。

江戸のアナキスト

ただし、ここに抜き出すのは、興味関心に沿った非常に偏った抜粋。

 

安藤昌益全集 第1巻 稿本自然真営道第二十五より

「炉ヲ以テ転下一般ノ備ハリヲ知ル論」

転下万国ノ人家、敢ヘテ異ナルコト無キ一様ノ備ハリナレドモ、聖・釈ヨリ以来、城郭・宮殿・楼台、寺塔・社壇、町家・在家、柾家・草家、非人小屋等、万品ト成ルハ、上下ノ私法ヲ立テ、四民・遊民、諸職ヲ為ス故ナリ。是レ乃チ聖・釈ノ罪ナリ

 

家家、大小・美疎異ナリト雖モ、家ノ形象ニ於テ一般ナリ。是レ一転定ナル故ノ備ハリナリ。然シテ、家ハ転定ノ象リ、家内ノ炉・竈ハ即チ転定ノ間ノ一活真・自感・四行・進退・互性・八気ノ妙徳用ナリ。故ニ炉・竈ニ於テ、上、王ヨリ、下、非人小屋ニ至リ、木火金水、全ク二別無シ。

 

つまり、

この世の身分の別は、聖人・釈迦がそのような制度を作ったからだ。やつらに罪がある。

 

人が生きるに、かならずや「炉」がその中心にある。そこでは自然の活真が自己運動をして四行となり、さらに進退運動をして相互関係を持つ八気になるという精妙なはたらきが宿されている。だからこそ、炉と竈の木火金水の運動において、王宮から非人小屋に至るまで、なんの違いもない。

 

※昌益は「天地」を「転定」と書き革める。天ー地という上下関係ではなく、めぐる動き、とどまる動きを内包した「転」と「定」。

 

※江戸期の思想家である昌益は陰陽五行(木火土金水)から出発し、やがて「土」をすべての根本と考え、「土」を別格として中心に置いたうえでの「四行」で世界を語り、森羅万象を説くようになる。「土」を知らぬ支配階級など論外の存在なのである。

 

●そして、猫。以下は安藤昌益全集第11巻 「禽獣巻」より

木火土金水 この五行が天地・日月・星々となり、炉に発現して人間の生活を営ませている。したがって人家の炉には天地・日月・星々・生物のすべてが象徴されており、あらゆる思いや心がつくされている。この天地・宇宙における森羅万象を人家の炉における五行の自己運動が体現しているのである。

 

人家の六畜

薪木=馬 炊事の水=牛 鍋釜の金=犬 燃える火=鶏 灰土=猫 炉の煙=鼠

 

は人家の炉灰の木が人食の余気と鼠の多生の気に感合して生ずるものである。炉や竈や灰土の気に生ずるので、炉の灰や火の暖気を好み、そこを離れることができない。

鼠の多気が灰土と感合して生じたものなので、鼠を食う。人気の余気に感合したものでもあるから、人の食物の余りを何でも食う。

これは人気・鼠気・灰気・殺気という多くの気が感合して生じたものなので、長生きすると老獪になる。これは灰土の革気に生じた証拠である。

 

炉の灰はしばらくすると土になる。灰は火から生じ、灰は土となって気を革める役割をつかさどり、同じように四季の土用は一年の進退する四時を革める。

(中略)

 

猫もまた五行の精妙な発現であるから五常をそなえている。

 

鼠を捕食するのはその生まれつきの習性であるが、沢山の鼠がいても、一匹を獲って満腹になれば、いたずらに殺すことなく、後のために貯えて必要以上は殺さない。これは猫の仁だ。人が鼠を憎悪して、猫に一度に多くの鼠を捕えさせようと考えるが、これは猫にも劣るもくろみだ。

 

猫が人の食物である魚を盗み食おうとねらっていても、人のいるときは見つかって打たれる屈辱を思って、我慢するのは猫の義だ。

 

飼い主を慕い膝にのっても、ほかの人の膝には嫌がってのらないのは、猫の礼

 

人が鼠の鳴き声を真似ても、鼠でないことを承知しているのは、猫の智

 

空腹でも鼠を獲ろうと熱中し、盗み食いをしようとしないのは、猫の信である。

 

 

そして、猫の瞳に注目!

炉の灰土の革気の精をうけているため、猫の内臓はよく気行の変革に対応する。この変革は特に猫の眼にあらわれ、その瞳は天地の気行の進退に感応して、時とともに変化し、昼夜の日月の運行に反応する。これこそが猫が炉の灰土の革気の精を受けて生じた明らかな証拠である。

朝夕の六時には黒い円になり、朝晩の八時には三角、昼と夜の十時には楕円、真昼と真夜中の十二時には針のような形になる。

 

[猫の眼の変化の図]

  写真の説明はありません。

 

真夜中の十二時に退気が極まって一に戻り、真昼の十二時に自然の進気が極まって一になる。これは天真のはたらきがはじまる微かなきざしである。そこで猫の瞳も針のようになってそれを示す。これは猫の身体が天地の気の進行に合致し、反応することを如実にあらわしている。

 

(中略)

 

このように毎日の時刻を知るには猫の瞳が一番よい。自然のはたらきそのままであるから狂うはずがない。正確とされているオランダの時計も、これには遠く及ばない。

 

灰は簡単に土に変わる。この気を受けているため、猫は何年たっても老いて死ぬことがなく、形を変えて獺(かわうそ)になる。俗説にいう猫が化物になるという誤りはこのことによるのだろう。

 

猫の毛色がいろいろあるのは、土気のよく革めるはたらきによる。肉は甘味(注)でその性質は偏りがなく変化しやすい。人が食うと毒になるので食ってはいけない。犬は猫を食うわけではないが、猫に出合うと嚙み殺そうとする。これは猫が犬よりも性質が下でありながら、灰土の気を受けて人の座に近く、犬の上にいるのを憎んでいるためである。

 

注:五行では「土」は甘味。

備忘録 田村語りにまつわること  その2

奥の細道 末の松山・塩釜

 

それより野田の玉川・沖の石を尋)ぬに末の松山は寺を造りて末松山(まっしょうざん)といふ。

松のあひあひ皆墓原(はかはら)にて、はねをかはし枝をつらぬる契りの末も、終にはかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞く。
五月雨の空いささかはれて、夕月夜かすかに、籬(まがき)が嶋もほど近し。
あまの小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「綱手かなしも」とよみけむ心もしられて、いとど哀れなり。
その夜、盲法師の琵琶をならして奥じょうるりといふものをかたる。
平家にもあらず、(幸若)舞にもあらず。
ひなびたる調子うち上げて、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚えらる。

 

 

浮世風呂』前編巻之下「午後(ひるすぎ)の光景」より 

五人づれのさとうのうち二人の盲人、風呂の中にてせんだい浄瑠璃を語る。

「さる程に爰に又、九郎判官義経どのが、八島をさして下らるる、(引)。扨早、其日の出立には、上には赤地の錦の直衣(ひだだれ)を引張り、下(しだ)には紺の布子(ののこ)のどてらを引張りけり(引)。附属(つきしたが)ふ御供には亀井・片岡・伊勢・駿河・西塔の武蔵坊、彼等なんどが御供にて、尻から泥水の流れるやうに下らるる(引)。(中略)そもそも真桑瓜とかけては、俵藤太秀郷と解きまする。其心はあんだんべ。むかでかなわぬと解きたり。御大将我折果(おんでへそうがおりはで)だよ。コリャ又弁慶は日本一の謎解きの名人だよ。よろこびいさんで八島の浦へ着にけり。(中略)おつかけまわつて弁慶が、三尺あまりのめめずのとげを、あたまのどんのくどへ、ふんづらぬいたツけ。是には何かよかんべい。ハテ朧豆腐の黒焼がよかんべいとぞかたりける。(中略)御代もかさねし万々歳、貴賤上下おしなべて感ぜぬ者こそなかりけれ。」

風呂の中にていちどうに ヤンヤヤンヤ。

 

 

菅江真澄 遊覧記 「かすむ駒形」 

天明六年(1786)一月~二月の日記

2月6日

六日 あしたは春雨めきて、夕月ほの霞て出ぬ。琵琶法師来りぬ。是も慶長のむかしより三線(サミセム)にうつりて、猫の皮も紙張の撥面ニ化(カハ)りたるが多し。曽我、八嶋、尼公物語、湯殿山ノ本事、あるは千代ほうこといふ女の戯ものがたりなンどの浄瑠璃をかたれり。こたびは「むかし曽我也」声はり上て、「ちちぶ山おろす嵐のはげしくて、此身ちりなばははいかがせん」と、語り語りて月も入りぬ。明なば とく出たたむとて枕とれば、ひましらみたり。

 

2月21日

廿一日 けふは時正也。近隣(チカドナリ)の翁の訪来(トヒキ)て、都は花の真盛ならむ、一とせ京都(ミヤコ)の春にあひて、 嵐の山の花をきのふけふ見し事あり、何事も花のみやこ也とて去ぬ。数多杵(アマタギネ)てふものして餅搗ざわめきわたりぬ。けふも祝ふ事あ り。日暮れば某都某都(ナニイチクレイチ)とて両人(フタリ)相やどりせし盲瞽法師(メシヒノホフシ)、三絃(サミセム)あなぐりいでてひきた つれば、童どもさし出て、浄瑠璃(ゾウルリ)なぢよにすべい、それやめて、むかしむかし語れといへば、何むかしがよからむといふに、いろりのはしに在りて 家室(イヘトジ)のいふ、琵琶に磨碓(スルス)でも語らねか。さらば語り申さふ、聞きたまへや。「むかしむかし、どつとむかしの大むか し、ある家に美人(ヨキ)ひとり娘が有たとさ。そのうつくしき女(ムスメ)ほしさに、琵琶法師此家に泊りて其母にいふやう、わが家には大牛の臥(ネタ)ほど黄金(カネ)持たり。その娘をわれにたうべ、一生の栄花見せんといへば母の云やう、さあらば、やよ、おもしろく琵琶ひき、八島にてもあくたまにても、よもすがらかたり給へ。明なば、むすめに米(ヨネ)おはせて法師にまいらせんといふを聞て、いとよき事とよろこび、夜ひと 夜いもねず、四緒(ヨツノヲ)もきれ撥面もさけよと語り明て、いざ娘を給へ、つれ行むといふ。先(マヅ)ものまいれ、娘に髪結せ 化荘(粧)(ケハヒ)させんとて、磨碓(スルス)をこもづつみとして負せ、琵琶法師の手を引かせて大橋を渡る。娘は、あまり負たる俵の重くさふら ふ也、しばらく休らはせ給へと、休らひていふやう、いかにわがおやのさだめ給ふとも、目もなき人の妻となり、世にながらへて、うざねはかん〔うきめ見んと いへる事也〕よりは今死なんとて、負ひ来つる台磨碓(シタスルス)をほかしこめば、淵の音高う聞えたり。女は岩蔭にかくれて息もつかずして居たり。かの琵琶法師ひとりごとして云やう、あはれ夫婦(ウバオチ)とならむよき女也(ムスメ)と聞て、からうじて貰ひ来りしも のをとて、声をあげてよよとなき、われもともにと、その大淵に飛込て身はふちに沈み、琵琶と磨臼はうき流て、しがらみにかかり たり。それをもて琵琶と磨臼の諺あり。とつひんはらり」と語りぬ。

 

昭和の盲法師 故・鈴木幸龍の「悪玉懐胎の様子」

昭和8年7月)

さても浮き世は広いもの、悪玉がようなる女めと契りたる男はよっぽどさもしい悪性者、達磨のようでぢつくりで、しかも反っ歯で獅子鼻で、どんぐり眼に額のかけ下げ、鳩胸で尻が出て足がちんばの、髭だらけ、さても似合うた夫婦づれ、吸いついたりひっついたり、何んぼう嬉しがったろう、おかしうておかしうて臍がよぢれる腹痛いぞと高笑い (後略)

 

※奥浄瑠璃に元来正本は存在しない。「生きた語り」は、時・場所・聴衆・語る人のそれぞれのおかれた条件や状況によって演ずる時間も語る内容まで変幻自在に変化する。

創造行為としての語り。

 

 

 

備忘録その1  「田村語り」にまつわること

以下のメモは、『東北の田村語り』(阿部幹男 三弥井書店)による


坂上田村麻呂の説話化の道]

811(弘仁2) 「毘沙門の化身、来りてわが国を護ると云々」(『公卿補任


その1 清水寺がらみ


平安末     『今昔物語集』巻11 清水寺草創縁起

大和国子島寺の延鎮が、淀川付近で一筋の金色の流れをみつけ遡ると山城国東山の辺に至った。そこで行叡という修行僧に会ったが、行叡はここに伽藍を建て、前の木で観音を造ることを願って東国へ去った。一方、坂上田村麻呂は狩猟の途中奇異な水の流れをみて、その源をたずねると修行する延鎮に会い、二人は力を合わせて伽藍を草創、八尺の十一面観音を造立した。

1322(元亨2) 虎関師練『元亨釈書』のうち「清水寺延鎮伝」  将軍田村は延鎮が造って清水寺に祀った勝軍地蔵・毘沙門天により、奥州逆賊高丸との戦いに勝つ。


室町    謡曲「田村」
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その2 長谷寺がらみ

1200~1209頃  『長谷寺験記』  

奈良県長谷寺の本尊十一面観音の霊験説話の集成。2巻。1200~09年(正治2~承元3)に成る。編者未詳。長谷寺関係の僧で、おそらくその勧進聖(かんじんひじり)か。上巻に19話、下巻に33話をそれぞれほぼ年代順に配列する。類型的、一般的、あるいは他寺の霊験説話を長谷観音の霊験に語り変えるなど、長谷寺を顕揚する姿勢が著しい。個々の説話は、登場人物の名、年月日を細かに叙述する傾向がある。霊験の真実性を強調して、勧進に効果あらしめる方法の投影とみなされる。 [森 正人] 『永井義憲編『長谷寺験記』(1978・新典社)』

ここに、「田村将軍得馬勝軍建立新長谷寺事」(田村将軍、馬を得て、軍/いくさに勝ち、新長谷寺を建立すること)が収められている。(『験記』下・第5)


田村将軍が戦勝祈願で長谷寺に参篭したところ、童子が一匹の馬を引いてきて、戦いのときは必ずこの馬に乗るようにとの伝言を伝える。この馬が水上を駆け、山や峰を飛び越し、矢も立たない。尋常な馬ではなかった。この馬が陸奥国三迫で突然死ぬ。葬ったところ7日目に光り輝き異香を薫じたので墓を掘ると、生身の十一面観音がいた。田村はそこに寺を建立。新長谷寺と名付けた。同時に奥州6か所に寺を建立。延暦19年(800)6月16日に同時に6か所に落慶法要、田村は6分身して参席した。これが田村が毘沙門天の化身と言われる所以。


●1052年 大和の長谷寺炎上。
 藤原一門が中心になって再興に着手。

 造営料を割り当てられた全国有力者のなかに、奥州藤原氏陸奥の金。

「田村丸伝説をつたえる水越遮那山長谷寺をはじめ「長谷」と名乗る寺院は、この頃奥州に入った長谷寺勧進聖たちによって建立されたと考えられる」(阿部幹男)

注) 勧進の例として。

   森末義彰論文(1937)によれば、
   長谷寺は草創以来、何度も炎上している。中世においては本尊十一面観音にまで焼亡が及んだのは4回。
   1219年/1280年/1495年/1536年


   1495年(明応4)全山焼失の際、復興事業のために勧進聖(寺の長老級)決定。→ 大和の諸荘郷以下全国にわたって勧進網を広げる。


   ※勧進勧進帳の完成を俟って行われる。勧進帳をもって、権力者に諸国勧進の御聴許を受ける。

 


達谷窟からの道は、北上川にでて南下すると黄金山神社のある遠田郡登米郡へ、東に太平洋に出ると気仙郡、伊勢の朝熊山が想起される経塚群がある田束山を中心とする本吉郡奥羽山脈に沿って街道をすすむと高鞍の庄の金売吉次の事跡をツタエル金成、さらに熊野山黄金寺や音羽山清水寺のある岩ヶ崎、鶯沢山金剛寺義経ゆかりの白馬山栗原寺、奥州藤原時代に建立された浄土庭園を模した大伽藍の金峰山花山寺、そこから奥羽山脈を越えると酒田や大宝寺城(鶴岡)へ、そして加賀の白山・美濃の白山長滝寺・越前の白山平泉寺へと「黄金」のネットワークが広がる。


●白山修験は鉱山開発に長けていた。
 白山信仰は古くから産金にからんで陸奥に入り込んでいた。


藤原利仁との融合

鎌倉時代初期 『吾妻鏡』 坂上田村麻呂利仁将軍が達谷窟に立て籠った夷の賊主悪路王や赤頭を征伐


鈴鹿の立烏帽子」の説話との融合
●蒙古襲来がその契機。→ 幸若舞「百合若大臣」(「田村語り」との共通点) 

簾内敬司を読む。

森崎和江つながりで、あらためて簾内敬司をじっくりと読んで、茫然としている。 この人の、深々と東北の風土に根差した、この恐るべき声を、どうして今まで聞き取ることができなかったのだろうかと、自分の小さな耳にがっくりとする。

 

小説『千年の夜』に寄せた藤田省三の言葉にも、厳しく打たれる。

 

「人は、どうしても書かねばならないことだけを、書かなければなりません」とカフカは若い友人に向って言ったことがあるそうです。(ヤノーホ『カフカとの対話』)

 まことに残念ながら今日の日本人の中では、学者にしろ作家にしろジャーナリストにしろ、殆ど全ての物書きが「どうしても書かねばならぬこと」を持っていない。そしてそのくせに「多産」である。血色よく死んでいる社会の分かはそういう物なのかもしれない。

 三章から成る此の小説は、「どうしても書かねばならぬこと」を確かに持っている人が「そのことだけを書いた」本である。特に第一章と第三章は寸分の余地なくそのことを証し立てている、と思う。沙漠の中の一粒の砂金。

 

この一冊を読むだけでも、森崎さんが簾内さんとの対話を熱望したわけもよくわかるような気がする。

 

日本社会を呪縛するムラ共同体の彼方へと西南の地から彷徨いの旅に出た森崎さんが出会った、東北の彷徨い人。

彷徨いの絆。唯一信ずるに値する「絆」。