可視化に抗する

28日は、海女博物館に行った。行く道々、本郷堂を見てまわった。

「堂」は聖域。「堂」と書くと、何か建物を連想しがちだが、聖なる空間、といった意味合いで、建物ではない。さまざまな神がさまざまな堂で祀られている。特に本郷堂は、村の主たる聖域。ここで決められた日時に村共同体の祈りを捧げ、村共同体の儀式をする。石だけがポンとある場合もあれば、祭壇が設けられている場合もある。

おしなべて、沖縄の聖域である御嶽にその気配が似ている。木がある、石がある、草が生い茂っていたりする、さりげない囲いがある、空間がある、村の中に実にさりげなく存在している場合が多いので、教えてもらわなければ、堂があることに気づかずに通り過ぎてしまう。よそ者の目には見えない、そんな聖域。

海で網に引っかかった弥勒のようにも見える石を祀った堂もある。(これは本郷堂ではない。当初は、石を釣り上げてしまった漁師が個人的にみろく石を祀るために作った堂であったが、それがだんだん地元の人々の信仰の対象になっていったという経緯を持つ)。

他にも豚が大好きな神、豚が大嫌いな神、(豚の好き嫌いで、夫婦神が離婚して、別々に祀られている場合もある)。男が大嫌いな神(船に乗ってやってきた男たちに襲われて死んだ若い女性が神として祀られている)……。

堂には神がそこを通ってこの世に現われるという「クェ」という穴がある。ふだんは、無造作ながらも、石で塞がれている。(あるいは、実に無造作に、「クェ」が塞がれていないままの堂も見かけた)。

神はそこに常にいるわけではなく、しかるべきときに神は「クェ」からやってきて、「クェ」から帰っていく。そして、神と人間の仲介をする役割として、神房(シンバン=巫堂)がいる。(ただし、すべての堂に専属の神房がいるわけではない)。

「常設の社殿を造営するとは、また、祭のときだけ『清浄の地上に』お迎えしていた神々を社殿の中に常住させることをも意味した。それは、国家の大事にあたって、いついかなる時でも神に祈願できる体制を整えておくことであり、国家による『神々の支配・統制のため』であった。……いずれにせよ、社殿の造営は世俗的な動機から出たことであって、信仰上の動機はそこには全く見られない」

「神社や御嶽において受け継がれてきた信仰において、神を視覚的に形象化しないこと、つまり神像を作らないことがその大きな特徴と思われる。……そこにあるのは、不可視なものを重んじ、可視のものに信を置かない心性、御嶽に典型として見られるような、社殿を含め、一切の人工物を忌避する心性である。朝鮮半島の堂信仰に関していえば、少なくとも済州島にあっては、同様の心性が感じられる」
(「原始の神社をもとめて」岡谷公二著 平凡社新書 より)。

目に見えないもの、耳に聞こえないもの。それを今や済州島も急激に失いつつあると、済州島で出合った人々が口々に言う。以前を知らない私には、むしろ、目に見えないもの、耳には聞こえないもので、この島は今もなお満ち満ちているように感じる。4・3事件の、けっして語られることない、語りようのない記憶も、そこにはある。

そうか、そうなのか、と今さらながら気がつかされること。何もない空白としての聖域を人間は太古より持っていた。空白を受け渡し、受け継いでいく、そういう場所としての聖域を持っていた、と言うことなのかもしれない。

そういうものであったはずの聖域が、立派に可視化されていくのは、可視化を必要とする人間の側のなんらかの事情があるのであり、(たとえば、4・3関係でも、最近、次々とまことに立派な慰霊碑が建てられたりもしている)。

何かが<可視化>されることによって、<可視化>されぬまま残された見えないもの、聞こえないものは、見えないまま、聞こえないままに、存在しないものとされてゆく。

ざっくりと、大づかみに言うならば、<可視化>という作業は、<可視化>されなかったものを抹殺していく作業でもあるのだろう。<可視化>に抗するものとして、空白としての聖域、空白としての表現、といったものの意味が問い直されていかねばならないのだろうと思う。この件、いまだ走り書き。これから詰めていく。