「阿」ではじまり、「吽」で終わる。

「吽」字には、一切の世界が集約されている。と空海
空海は「吽字義」の最後を、歓喜義で閉じるという。

 復次に等歓喜の義とは、此の吽字の中に訶字有り。是れ歓喜の義なり。上に大空有り、是れ三昧耶なり。下に三昧の晝の字有り。是れ亦三昧耶なり。二の三昧耶の中に行するなり。三世の諸佛皆此の観に同じたまふの故に、等観の義と名づく。

 梅原猛訳:
 吽字の中に訶字が含まれる。これはハ・ハ・ハという笑声を含んだものである。大笑いの意味である。しかも、吽字には、上と下に、三昧耶を示している。上と下には、自利と利他を通るものである。自ら楽しんで大笑、他人を救って大笑、三世諸佛は皆、このような観をなすという。

思わず『空海の思想について』(梅原猛 講談社学芸文庫)を買ってしまったのは、書店でふっと手に取って開いた最後のページ梅原猛のこんな言葉があったから。

「私はここで、空海は三世諸佛の大声の笑いを聞いていると思う。世界の諸佛は皆笑い、とりわけ、大日如来が大声で笑っている。空海もともに笑って、笑いによって大日如来と一体になっている。『吽字義』はこの等歓喜義で終っている。
 『吽字義』はここで終るが、諸仏とともに笑っている空海の笑い声がまだ残っているようである。
 自ら生きることは楽しい。
 他人を利することも楽しい。

 何とよき言葉ではないか。私はこの笑い声の愛好者としての空海を心から愛するものである」

 笑う宗教、笑う空海。善き哉、善き哉!


梅原猛曰く、
空海は身体性の原理を100パーセント肯定する。物質世界を肯定する。身体はわがうちなる物質なのだとする。
あらゆるものは六大(地・水・火・風・空・識)で成り立っている。六大は互いに混じりあって、あらゆるものを構成する。
あらゆるものが六大からできているならば、すべてのものは、すべてのものを、その内面に含んでいる。
「六大無碍にして常に瑜伽なり」
つまりは、これは、汎神論にも等しい。
世界の一部を取ってみれば、そこに世界の全部が宿っている。

この発想は、当然に、『吽字義』にも、『声字実相義』の根本にある。

世界は私で、私は世界で、私は世界の現身の一つに過ぎないとも言えるわけで、そこにあるのは無我ではなく、世界そのものの我である大我であり、ちっぽけな自我などではない。ちっぽけな欲望なんかに執着するな、大欲で世界に向かえ。この素晴らしい世界の、無限の宝を開拓せよ。私が世界で、世界が私であるならば、私の内にも無限の宝。
 
「世界には、多くの宝が蔵されている。その宝は無限であり、無尽である。それを一生涯、人間がほり尽くし、なめ尽くしても、容易に、その宝は尽きることはない。それが人間の真の智慧であり、一度、そういう智慧のかおりをかいだものは容易に、他の智慧に心を奪われることはない」。

「すべての世界は大日如来の現れ、一木一草に到るまで、大日如来の顕現である。それが平等の側面である」
「しかし、もう一面、世界はすべて内外の三色をそなえている。世界はいろいろな色をもつ。そこに、世界の差異がある。つまり、大日如来はその因縁に従って、さまざまに現れるのである。そして、その現れによって、そこに差異があるのである」
「愚者はこういう世界の姿を知らずに、あるいは感覚にとらわれ、あるいは欲望にとらわれて迷うが、智者はこういうことわりを知って悟るというのである」

「この世界は愚者にとっては迷いである。しかし、同じ世界が、智者にとってはむしろ楽しみなのである。この世界はもとより、妄見ではないが、しかし、永遠のものの現れなのである。現れた世界はそれなりに楽しい世界なのである。密教において、悟りはまた楽しみなのである」

「この世界をよく悟り、その世界によく遊べ、それが密教の教える生の哲学である」。

ううむ、なるほど……。