「ひとつの日本」と「コメ」と東北と メモ

ひきつづき『東北学/もうひとつの東北』。

赤坂さんが新たな民俗学を構想するとき、そこには稲作以前、「コメ」にとらわれる前の日本がある。
近代日本のアイデンティティを形作ってゆく過程で「コメ」に収斂されたナショナルな風景、そこから見えなくされたものを見る視力を持つこと。

「コメ」騒動以降、日本を支える「コメ」を生産する役割を担わされた半島において、半島の民が「コメ」に追われてどのような放浪の旅に出たのか、思い起こすこと。
(彼らはやがて関東大震災に教われる東京にもさまよいこんでいた)

日本を支えるコメを増産するために、日本窒素の窒素肥料があったことを思い起こすこと。
(日本窒素は、朝鮮窒素の巨大化学コンビナートを現在の北朝鮮興南に建設して、戦後の日本の化学工業の基礎を創りあげたことも思い起こすこと)。

「コメ」に苦しめられ、「コメ」に追われ、「コメ」に尽くすという点において、東北と植民地朝鮮は似たような位置づけにあったということを思うこと。