道は人住む里に通ず、里の社の神に通ず。

大津 -草津 -守山 - 武佐 - 愛知川 - 高宮 - 鳥居本 - 番場 - 醒井 - 柏原 - 今須 - 関ヶ原 - 垂井 - 赤坂 と たどってみた。
大津は昔の関寺があったという、今の逢坂・蝉丸神社界隈から。


雨が降っている。肌寒い。

出発地は神社。背後には比叡山。海のような琵琶湖。


足で歩いて初めてわかることがある。
風土の中の道に身を置いて、初めてわかることがある。


三代前に半島から列島へと渡ってきた一族の子で、
横浜の工業地帯に生まれ、同じく横浜の新興住宅地に育った私には、
風土の中に人がいて、神がいるという感覚は、はなから欠け落ちているもののようだった。


それが、今回の中山道の旅では、じわじわと足をとおして、肌をとおして、しみいってくるようなのだ。


さんざん人のゆかぬような中央アジアの乾いた荒野やら、厳冬のサハリンやら、八重山の島々やら、台湾の山地やら、日本各地や韓国やハワイのハンセン病療養所の島々やらを歩き回って、歩き出して四半世紀を過ぎての、この感覚。


説経「小栗判官」ゆかりの宿場町を、餓鬼阿弥の車を引く照手姫を思いつつゆくこの旅は、「人」と「土地」と「神」というものに対する妙な感覚をかきたてる。


ふと思い出す。石垣島での見聞。
マラリヤで、天災で、人の住まなくなった集落では、御嶽もさびれる。
人が消えた土地、人が神を忘れた土地は、神なき土地となるのだと、教えてくれた人がいた。
たとえ、そこに誰もその存在を知らぬ神が草木に土に水に風に宿っているとしても、それを「神」として感受する者がいなかれば、それは「神」とは呼ばれない。


説経とは、道によって育てられた「物語」の器である。この「物語」は、道をたどり、人びとの生きる村々をめざし、人の集う寺社の境内を語りの「場」とした。


中山道をゆく、集落ごとに神社がある、日枝神社賀茂神社八幡神社(八幡さんはやたらに多い。義経伝説も、木曽義仲の物語もこの道沿いに)、神明社、権現さん、山の神、水の神、集落を結ぶ道々に寺社がある、愛知川と高宮の間の旧道には千樹禅寺、ここは「江州音頭発祥の地」とある、江州音頭は説経祭文が念仏踊りとうまいことコラボして、えらい面白い節と踊りになったもので、寺の境内で躍る村人が、あんまり楽しくて、踊るのをやめることができなかったほどと。寺の境内でね、みんな集まって、おまつりして、歌って、語って、踊って、それが祈りにもなってね。


説経語りや、祭文語りが道伝いに運んで行った物語というのは、人々の記憶の器なのだと、言葉にならぬみずからの思いをそこに託して、物語をわがものとして、ひとつの記憶として受け取り直す装置なのだと、私はここのところ思うようになっていたのだが、さらに言うならば、道ゆく者たちが「語り」の「場」とした寺社の神々、土地の神々、山の神、水の神、氏の神、この「神」もまた、人間たちの記憶の器のひとつの名前のように思われてきた。


神とは「記憶の依り代」であり、「記憶の器」であり、「記憶の場」なのだ、という実感。


人を支配しようとする者は、神を支配することからはじめる。
神々の体系を書き換えることからはじめる。
と、こんなことを考えるうちに、熊野にて明治政府の神々の統廃合(一村一社)に猛烈に異を唱えた南方熊楠の文章を読まねばと思いはじめた。
岩波新書「神々の明治維新」がわが家の書棚にったことを思い出した。


人と神と記憶と語りと、それを結ぶ声と道とに思いをめぐらせながら、私は中山道をあるいた。